一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

残念ながら

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いずれも、NickxarさんによるYouTube動画より

 彼女らは一秒後、容姿からは想像もつかぬ大絶叫をする。五秒後には、大笑いのあまり身を折ってうずくまったり、両手で顔を覆ったり、天を仰いだりしている。

 Bush Prank 動画には中毒性がある。他愛のないドッキリ動画だ。植込みか鉢植えに見えた立木が、じつは着ぐるみで、突然通行人に話しかけたり、動いたりする。
 仕掛けは幼稚でばかばかしいほど面白い。こんな子供だましに息を呑んだり絶叫したりした自分が、照れ臭くもおかしくもなるからだ。

 始めたのが誰かは知らない。今では、こんなにいるかというほど、世界中にBush Prank のユーチューバーがいる。独自性を競う気があるものか、よく観ると芸風に違いがある。映像作品としての出来栄えの差もある。今のところ、Nickxarさんによるアイルランドのダブリン市街での動画と、qPekoさんによるリゾート地での観光客に仕掛けたものが安定した出来と感じて、本線として観ている。
 もちろん日本にもいる。ブッシュマンとか葉っぱマンと称ばれている。中国にもいる。韓国にはもっといる。

 要は、動かぬはずのものが突然動き出すドッキリだから、変化型はいくつも出てくる。洋装店前に陳列されたマネキンが突然動くとか、遊園地に据えられた人形が動くとか、商店街に陳列されたピカチューが動くとか、観光地の銅像が動くとか。日本ネタでは、飾られていた甲冑武者が刀を抜こうとするのもある。
 通行人の足元にヘビや巨大なクモが這い出したり、上から布製コウモリが降りてくるなんぞというのもある。
 着想は無限だろうが、結局はブッシュに還ってくる。コスプレとしては陳腐で、どう視てもカッコよくはない、キッチュ(幼稚なまがいもの)であることの無邪気な面白さは格別で、考え過ぎたものなんぞとは比べ物にならない。

 いくつか考えさせられることもある。まず「笑いのツボ」の問題だ。本当に脅かそうとして、急激に大仰な動きを見せるものが多々ある。なかには大声を発するものまでが。下である。
 脅かすのと驚かせるのとは異なる。動くはずのないものが動いたという、我が胸中の先入観に一瞬の狂いが生じたことが、自分でもおかしいから笑えるのだ。
 大袈裟でないからこそ、怖い、驚く、意表を衝かれるという面白さが、上である。

 どのタイミングで、あるいは通行人が通りかゝる何メートルくらい前で動いて見せるかという点にも、制作者のユーモア・センスが表れる。またカメラ・アングルにも卓越した作品もあり、これ見よがしながら平凡な作品もある。編集においても、通行人をどれほど手前から写し、ドッキリ後の笑いをどこまで残すか、映像の切取りかたにも、センスの違いが出る。

 仕掛けられた人びとからは、もっと多くのものが見える。まず性差だ。男性のナイス・リアクションもあるにはあるが、なんといっても傑作は女性に多い。想像を絶して驚き、けたゝましく笑う。お嬢ちゃんもお婆さまもだ。遊園地でも絶叫マシーンやお化け屋敷のファンは女性に多いと聴くが、女性のほうが驚きを愉しむ能力に長けているのは、世界共通と見える。

 カップルが仕掛けられて、女性が思わず大声を発してしてしまったとき、男性はヨシヨシという反応をする。逆に男性が魂消てしまったとき、女性は「あなた、駄目ねえ」という表情で笑う。同性カップルの場合は、日ごろの役どころが一瞬であらわになる場合がある。
 いずれにもせよ、仕掛けられた後のほうが、仲が良さそうである。

 観光客などが集団で仕掛けられると、一番大仰に驚いてしまった人が仲間から笑い物にされるパターンだが、そういう場合の仲間たちの笑いかたは強烈で容赦がない。
 一人で仕掛けられると、驚いても反応が小さいか、すぐ平静に戻ろうとする。はた目を気にするからだろうか。ということは逆に同行者がある場合は、自分がドッキリに掛ってしまったことを、友人なり恋人なり家族なり、連立っていた者とともに笑おうとの心理が、無意識のうちにも働いているのだろうか。

 まだまだ多くのものが見えるが、もっとも巨きい問題は、このような撮影ができる地域と、さようではない地域とが、現在の地球上にはあるだろうということだ。
 現在のユーチューバーたちだって、悪ふざけが過ぎるとクレーム付けられたことは多々あったろうし、喧嘩腰で摑み掛られたこともあったろう。編集でカットした部分である。
 もしこの企画を、紛争地域や同胞内乱の疑心暗鬼渦巻く地域で試みようものなら、驚かされた人は条件反射のごとく咄嗟に、刃物か武器に手を伸ばしかねない。
 とりあえず自分は今、命を狙われてはいないとの安心感が、街行く人たちの心にも、世間にも国にも行き渡っているからこそ、可能なジョークである。

 素直にに驚き、無邪気に笑い転げる、ドッキリ被害者たちを繰返し見せられていると、こういう人間たちが紛争や事件に関わるはずなどあるわけがないと思えてくる。
 だが、そんなことはないと、残念ながら知っている。