一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

さま

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『とべない沈黙』(「アートシアター」Vol.38)、チラシ、チケット半券。

 もはや真実は、幻想をもってしか掘り起せないほど深くに埋れてしまったのか? 世にも美しい映像で突き付けられた不可能性の提示は、高校生に深刻な影響を残した。

 札幌の虫捕り少年は夏休みのある日雑木林で、視たこともない巨きくて綺麗な、黒い揚羽蝶を発見。心臓が破裂しそうになるほど追いかけ追いかけて、ついに虫網を被せた。
 標本にして提出すると、先生から呼出された。これは九州を生息北限とする南方由来のナガサキアゲハという蝶で、幼虫はザボンの葉しか食べない。北海道で採集できるはずがないという。
 たしかに少年は百貨店の売場で、立派な標本に心奪われ、息を詰めて視入ったことがあった。でもこの一匹は、もしや死ぬんじゃないかと思うほど走って、自分で網を被せた大切な一匹だ。だれも目撃してはいなかったけれども。
 しかし先生や、先生から紹介された大学教授の前で、少年は抗弁できようはずもなかった。小沢昭一戸浦六宏。少年は標本を細かく千切って、川に捨てるしかなかった。

 長崎。お土産に巨きな実が一つ着いたザボンの枝。枝には、人に知られず幼虫が一匹とまっている。東京行き急行雲仙。かなり走ったころ、列車内で男が幼虫に驚き、枝ごと窓の外へ放る。
 山口県萩。二百年続く旧家の土蔵で不倫情事。木村俊恵長門裕之。家族制度と身分制度の圧迫のもとで、事件は起きた。箪笥金物に沿って、幼虫が這っていた。
 広島。萩から逃げてきた青年のワイシャツの肩に幼虫がとまっている。平和行進、記念式典、ストリップ劇場を経由して、幼虫は別の青年へ。被爆者二世の少女を東京から追ってきた青年が、必死の愛情告白。あなたたちには解るはずないと、擦違ってしまう。加賀まりこ蜷川幸雄
 京都。玉砕部隊で一人だけ生残った中年男が、戦友たちの墓参りに同行させた若い娘を口説いている。広島土産といって女に渡した陽傘には、幼虫がとまっている。男は感情が激すると、今も悪夢のごとき戦場場面が蘇って我を失う。加賀まりこ小松方正

 以下大阪、香港、横浜、東京。渡辺文雄、水島弘田中邦衛坂本スミ子千田是也、東野英次郎、日下武史。凄い顔ぶれ。
 すべての場面に、そっと幼虫がいて、化身のように加賀まりこがいる。その加賀まりこがついに、コートの襟を立てゝ、千歳空港に降り立つ。長い一本道を車がやって来て、降りてきた加賀まりこが、少年に向って腕を差出す。「蝶を返してちょうだい」

 いずれの土地にも、抜き差しならぬ現実に身動きとれずにもがく人びとがある。こんなものが素顔の自分ではないと呪いながら、押しつぶされてゆく人びとばかりだ。
 真実はもはやこの世の事実・現象のなかにはない。幻想の中にしか。

 もと岩波映画社に所属して、記録映画の専門家だった黒木和雄監督による、劇場用映画第一作。アートシアター新宿文化という小屋で、何回観たのだったろうか。半券によれば、会員入場券二百十円。一般券がいくらだったかは、憶えていない。
 一九六六年二月公開。高校一年生も終ろうとしていた。翌月か翌々月かには、今村昌平『人類学入門』が公開され、さらに数か月後には大島渚『白昼の通り魔』が出た。年末総括では『映画芸術』『映画評論』ほか各誌とも、今村作品や大島作品にばかり票が入り、『とべない沈黙』があまり取沙汰されぬことに、おゝいに義憤に駆られ、歯がゆい想いに苛立った。

 その後『竜馬暗殺』『祭りの準備』と秀作が続き、黒木作品が話題にのぼる機会があっても、なぜか『とべない沈黙』は、永らく幻の作品扱いだった。
 だいぶ後年、新宿ゴールデン街の「久絽」で何度目かにお見かけしたさい、ついにご本人を前に長々と『とべない沈黙』論を弁じてしまった。無礼きわまりない噺である。大家を眼の前にして、その旧作を若造が論じるなど、本来あってはならぬことだ。が、こちらも真剣だった。なにせ後続の他作品はVHSかDVDが出ているのに、『とべない沈黙』だけは出ていなかったのだ。
 揚句に「『とべない沈黙』をワンコピー、ぼくにください。実費をお支払いさせていただきますから」とまで、申しあげてしまった。

 黙って、にこにこしながらお聴きくださっていた監督は、やおら、
 「解った。君にはやる。いつになるかは約束できないが、やる。どういうもんだか、トベチン病患者がときどきいて、あの映画のおかげで人生を誤ったなどと云ってくる。そういう患者とは違うようだが、とにかく、君にはやる」と、おっしゃってくださった。じつのところは辟易とされたのだったろう。
 ママさんは「どうせ監督、憶えてるかどうだか」と云っていたが、私は前途に光が見えたような気になっていた。
 が、いたゞけなかった。いたゞかぬうちに監督は亡くなられ、DVDも市販された。

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 ときに『とべない沈黙』の独自性は、主演女優加賀まりこの神秘性によって達成された面が多分にある。この作品を観ずに、この女優さんを語って欲しくない。
 倍賞千恵子さん、岩下志麻さん、吉永小百合さん、そりゃ大女優さんでございましょう。でも倍賞さん、岩下さん、吉永さんです。こちらは加賀さまでいらっしゃいます。
 『乾いた花』(’64.篠田正浩監督)、『とべない沈黙』(’66.)、『泥の河』(’81.小栗康平監督)。畏れ多くも、加賀まりこさまは二十年のうちに三回、神とならせられた。
(『とべ沈』の前年公開、大庭秀雄監督『雪国』では、岩下さんと加賀さまの一騎打ちが観られる。)