一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

その日

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 こゝまで来たら、最後まで付合おうじゃねえか。なぁ、太郎!

 洗濯機を回すあいだに、八百屋よりも先に、まず時計屋に駆け込んだのにはわけがある。太郎(我が腕時計の名)の電池切れだ。時計屋のご主人には、毎度同じお願いのしかたをする。
 「俺同様、だいぶくたびれた奴でね。停まっちゃったんだけど、故障か寿命か電池切れかも、判らねえんだ。診てもらえませんか。電池切れだったら、交換してくださいな」

 十数年前までは、池袋西武の時計貴金属フロアで、交換していた。現役社会人として、池袋で足す用はいくらもあったから、百貨店はなにかと便利だった。高価な買物をする機会はなかったが、眼の保養というか一般常識というか、はたまた時代の空気を吸いにと申すべきか、店内をぶらぶらすることも嫌いではなかった。
 ある年のこと、電池交換を依頼したところ、当店ではこの時計に交換はできかねます、と応じられてしまった。暗に、もう買い換えろよと云われたわけだ。

 近所の時計屋に、恐るおそる持込んだところ、当り前のように交換してくださった。以来同じ店で交換している。
 「確かに年季入ってますねぇ。でも、機械は快調に動いてるようだなぁ」
 「ずいぶん前に、点検してもらっただけなんだけど……」
 「解りますよ。私らは、裏蓋を開けると判るんですよ。調整した証拠が残ってるからね。いつ頃、どういう店かまでね。ほら、歯医者さんが、患者さんの顔を視忘れたって、歯の治療跡を診たら自分が治療したかどうかが、判るそうじゃないですか。ま、似たようなもんでしょうかねえ」

 腕時計との付合いは、中学一年からだ。電車通学するには必要だろうというので、伯父がプレゼントしてくれた。皮ベルトや、当時世に出たばかりだったマジックベルトでベリッと剥すゴム製のベルトも真先に試みた。三年生のとき、粗相してガラスを割り機械も壊れた。
 次は黒い文字盤がいゝと親にねだったが、お前はヤクザかと却下され、紺色の文字盤になった。合宿地かどこかに置き忘れて紛失した。飽きが来たことも故障したこともあって、いくど代替りしても、時計と長い付合いにはならなかった。

 社会人となって、自分の給料で買った最初の(結果として唯一の)時計が、今の太郎だ。色気も見栄もあって、あれこれ候補を検討してはみたが、いざ自分で買う段となると、丈夫そうだとか飽きが来そうもないとか、無難な選択基準が前面にしゃしゃり出てきて、結局は当時のベストセラーから選んだ。唯一こだわったのは、アラビア数字であれギリシア数字であれ、文字盤に数字というものがいっさいない、という点だった。

 以来半世紀近く、出張だろうが旅行だろうが、晴れの場だろうが夜の巷だろうが、全裸になるとき以外は私とともにいる。就寝中もはめたまゝだ。
 「お気をつけください。ガラスが擦り減ってきていて、少し動きます。思わぬ拍子に外れることもありますから」
 「文字盤が少し黄ばんできてますがね、これは落ちませんですよ、なかなか」
 「当時、数が出ましたからねぇ。稀にはこういうのが出るんですよ。消耗品の数物から名品や国宝が出るのと同じでね」
 電池交換のたびに、いろいろなことを云われる。

 たいそう可愛がった自転車に名をつけるときも、次郎とせざるをえなかった。太郎の名はこいつ以外にはありえない。
 じつは昨年から今春にかけて、心底怖れていた問題があった。私が定年になると、こいつも停まるのではないか。昨日も、その疑念が一瞬頭をよぎった。惰性で半年余り動いてはきたが、いよいよ停まるか。その日が来たか。

 「十五分もしたら、またおいでください」
 ご主人は、なに食わぬ顔で、電池を交換してくださった。昨日まで中にいたガラの電池を、もらって帰って来た。