一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

不滅

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 とかく男と女というものは……。今想えば、そういう問題だったのかなぁ。

 『とべない沈黙』について、高校生だった私に与えた衝撃と影響は「深刻」だったなどと、いさゝか思わぜぶりだった。なんともはや、無責任な申しようだ。短兵急に云えば、人間関係って、ことに女と男って、根本的にうまく行かねえんだな、というようなことだったと思う。
 これは『とべない沈黙』の核心主題ではない。瞭らかに見当違いの感想だった。性欲との折合いや女性への憧れが日常生活の最大課題だった年齢の私が、映画の一部分に過剰反応してしまったに過ぎない。

 始まってすぐ、ある先行映画を連想した。モノクロ映像の美しさ(つまりは光と影の術)。構図とクローズアップのなまめかしさ(エロチシズム)。これはミケランジェロ・アントニオーニじゃないかな?
 篠田正浩大島渚吉田喜重ら松竹ヌーヴェルヴァーグと称されていた監督たちには、たしかにフランスのヌーヴェルヴァーグ作品のあれだったりこれだったりに通う匂いがあった。
 が、黒木和雄の(カメラ鈴木達夫の)画面は違った。記録映画出身の監督らしい、手持ちカメラで視点移動しながら対象を追掛ける画面や、とんでもなく遠くからの超ロングショットなど、イタリアのネオリアリズモ風も特徴だった。そしてアントニオーニ風の倦怠美とエロチシズム。

 なんであんなものを観たのだったか。おそらくはタイトルに惹かれて、わけも判らずに観たのだったろうが、中学の最後くらいに『太陽はひとりぼっち』を観た。これぞまさしく、男と女って……そのもの作品だった。強烈な印象だった。それが『とべない沈黙』感想にまで、尾を引いてしまったのかもしれない。
 それまではアメリカ青春映画を観ていた。伊東ゆかりさんや中尾ミエさんや弘田三枝子さんらが訳詞版で唄っているような、アメリカンポップスそのままの世界だ。だが、アメリカばっかり観ていたんじゃ駄目だ、ヨーロッパを観なければと、アントニオーニをきっかけに眼醒めた。その眼醒めと、プレスリーからビートルズへという時代の移行期が、重なっていたのだと思う。

 『太陽はひとりぼっち』一作で、私にとっての美男子(って言葉、今もあります?)の代表はアラン・ドロンとなった。しかしそれ以上に惹かれたモニカ・ヴィッチのほうは、大好きな女優とは、なぜか人前では口にしがたかった。
 VHS.もDVD.もない時代だから、公開済み作品を追掛けるには骨が折れた。どこの名画座でだったか、ようやく『情事』を観た。やがて『赤い砂漠』も公開された。モニカ・ヴィッチにどこか似たところのある、ひと口に申せば「憂鬱」の似合う女優さんばかりを、探して歩いた。そのことは親しい仲間にも内緒にした。
 ほどなく新劇の舞台を覗くようになっていったから、女優と云ったら倍賞千恵子でも浅丘ルリ子でも、岩下志麻でも吉永小百合でもなく、奈良岡朋子岩崎加根子と思っていた。

 フランソワーズ・サガンの小説が矢つぎばやに翻訳されて新潮文庫で出たが、どれも身に親しい世界のように感じた。アルベルト・モラヴィアの翻訳小説を最初に読んだのも、その頃だ。ついでに、ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』なんかも。
 惜しむらくは、なんの指針も持たぬ高校生の無手勝流ほっつき歩きの限界。もう一歩足を延ばして、アイリス・マードックマーガレット・ドラブルだとなっていたら、女性世界のなにがしかに、眼を開くことができていたかもしれない。あるいは時間を遡って、キャサリンマンスフィールドを読みこなせる高校生であったなら、文学の核心に、よほど早くから近づけていたかもしれない。哀しいかな、歩幅が足りなかった。
 その後じつにじつに、遠回りすることになる。

 さてアントニオーニだが、今でも好きだ。フェリーニより、ゴダールより、好きだ。大島渚より、黒木和雄が好きなのと一緒だ。では今村昌平は? う~ん、それはちょいと考えさせてくれ。
 モニカ・ヴィッチも、私の中では不滅である。マリリン・モンローより、ソフィア・ローレンより、好きだ。ではカトリーヌ・ドヌーヴは? う~ん、それもちょいと考えさせてくれ。