一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

揚げびたし

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 揚げびたし。思い出しながらにしては、まずまず。四五日ほどは食卓小鉢のひとつとなる。

 起床後まず最初にすることは、体重測定だ。ヘルスメーターは洗面所に。喉保護のために首に巻いて寝たタオルを、タオル掛けへ。下着を脱ぎ、太郎を洗面台に置いて、文字どおり全裸でメーターに乗る。
 大切なのは測定後、着衣の順番だ。今どこが一番寒いか、躰に訊く。胸か腋が寒けりゃまずアンダーシャツ、腿が寒けりゃまずパンツ。ひとつ着るごとに訊く。躰は正直で、下半身または上半身ばかり続けて身に着けることは、めったにない。パンツを穿いた段階で躰は、次は上だと、かならず云う。

 老人の一人暮しでは、日常の細かいあれこれまでが、どうしてもルーティン化する。そのほうが安心・安全ではある。が、ルーティン化が進み過ぎると、物忘れ(ボケ)も発生しやすい。無意識に物を置き、あるいは移動させてしまって、さてそれを後のち思い出せずに大汗かくことも起りかねない。いや、しばしば起る。

 そういう事態を避けるには、なにごとに寄らずいちいち、小さな判断を積重ねながら生活するのが良さそうだが、そのさい最有力な判断基準となるのが、躰に訊くという方式だ。躰が(感性が、感覚が)欲していることに、意識と行動を服従させるという生きかただ。
 ところが修行未熟にして技術拙劣。この生きかたにおいて私は、まことにヘタクソだ。当然である。つい先頃まで、細ぼそなりとも世間(社会などというのは気恥かしい)と繋がっていたし、その一員でもあった。そこでは、ひと様へのご迷惑を遠慮し、約束を遵守するのが最優先で、己の躰の声を聴くなんぞは、後のあとの、そのまた後回しが当り前だった。
 が今、第何番目かの人生に入って、この技術に熟達せねばと、しきりと思うに至ったわけである。

 永らく椎茸を食ってねえなぁ。突然痛切に思った。ということは、精神衛生上からか肉体健康上からか、躰が椎茸を欲しているに相違ない。たしかに日常定番の煮物炊き物に、椎茸を久しく使っていない。よしそれならばと、普段の甘辛に替えて、酢を利かせた出汁にしての揚げびたしを思いたった。
 まず天ぷら鍋の機嫌を伺わねばならぬ。フライパンと中華鍋は毎日のように使う。焼くか炒めるか、せいぜい蒸すかで、揚げることにはずいぶんご無沙汰だ。油を大量に消費するし、粉類やパン粉も面倒臭い。買うと使い切らずに余らせて、無駄になりやすいからだ。案の定、天ぷら鍋の機嫌は悪く、まずこの機嫌を戻す。

 揚げびたしなら、野菜類は素揚げでいゝし、トリ肉には薄く粉をまとわせるのみだから、世話なしだ。今回は魚を使う気はない。料理本にはきっと、片栗粉なんぞと書いてあるのだろうが、わざわざ買う気はないから、小麦粉で十分。肉の下味はどうするか。塩を使うと水が出過ぎるかもしれぬから、胡椒だけとする。あとは低温で、ゆっくり揚げれば済む。

 問題は出汁だ。思い出せない。とりあえず水2と酒1に、砂糖と顆粒出汁の素をヤマ勘で放り込んでひと煮立ち。料理本には味醂なんぞと書いてあることだろうが、使わなくなって久しい。その他の調味料で調整可能。醤油を差して、またひと煮立ち。
 今回は酢を強めに利かそうというのがテーマだし、根が甘党の舌だから、バランス上甘味も強くしたい。かといって砂糖に頼り過ぎると、喉がいがらっぽいような甘さになる恐れなしとしない。砂糖は半量にして、蜂蜜を使ってみた。
 で、酢だ。失敗の多いのはこゝである。手前から攻めていって、熱さを値引きしながら味見して、気持ち濃過ぎるところまで行く。冷ます段階で、角氷を三つ四つ放り込もうとの算段だ。
 柚子かレモンと申したきところなれど、私の暮しには贅沢というもの。生姜のみじん切りのほかに、チューブのおろし生姜も援軍。これぞ隠し味の七味唐辛子。ひと様にはお奨めしない。
 以前の味と比較はできぬが、まずまずのものができた。毎度思う。食べるのは、どうせ俺だ。

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 出汁の決心がついたら、野菜から順に揚げ始め。油を切ってから出汁に浸す。全体が冷めきらぬうちにラップ。こゝも肝のひとつだ。ラップは落しぶたなんぞより、よほど出汁が具材に染み込む。
 あとは粗熱が取れたら冷蔵庫行きだ。料理の先生がたは、ひと晩冷蔵庫で明日にはなんぞとおっしゃるが、もう少~し、丸一日寝かせるというのが、私の勝手な思い込みだ。明日の一献には、間に合う。

 ジジイにゃあ、明日が楽しみなんてことは、めったにあるもんじゃねえんだ。そこへゆくと……ざまぁ見やがれ。