一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

劇的

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山崎正和(1934‐2020)

 この時代に生れ合せたことは、私の罪なのでございましょうか?
 なんとも鬱陶しい問いだ。すぐ「運命」なんて言葉に直結してしまいそうだ。現在の感覚からすると、根源的ではあるが大袈裟に過ぎて、陳腐とさえ受取られかねない。しかしこの問いが額面どおりに切実で、似つかわしかった時代や人びとがあった。

 戯曲『世阿弥』を引っさげた山崎正和は、戯曲と批評の双方で、この問いを真正面に据えて登場した。
 この文学世代の論客のうちで、もっとも若くして登場したのは江藤淳だったが、桶谷秀昭磯田光一、秋山駿と続いて登場してみると、各々際立った独自性を示しながらも、ある共通する世代感覚の主張の観を呈した。その問題の幕引きを務めた存在が、山崎正和だったと、今にして思う。

 第一エッセイ集『劇的なる精神』巻頭に書下ろされた「無常と行動」は、印象強烈だった。安部公房榎本武揚』、遠藤周作『沈黙』、ノーマン・メイラーアメリカの夢』の主人公たちが見舞われた運命と、それによって生じた内面の崖に光を当てる。『平家物語』に書き留められた鎌倉武士たちの人間像輪郭や、『イリアス』に残されたトロイの武人の最期が想起される。

 人は生れ合せた時代を夢中で生きる。(山崎さんは「時代に忠誠」と表現している。)次なる時代がやって来る。お前の時代は間違った罪深き時代だったと告げられ、人は断罪され、滅ぼされる。二十年早く生れていたら、または二十年遅く生れていたら、時代の常識のなかで生き、慣例に則って死んでゆけたかもしれないのに。
 いっそのこと同時代から顔を背け、なにごとにも関わらぬようにして、シラケた(死語ですか?)刹那的ニヒリストとして生きれば、運命による処罰を免れうるか。そんなことはあるまい。そんなもの、しょせんはカウンター的存在であって、時代の子の一人に過ぎまいから。
 ならばいかにすれば人は悲惨な末路に見舞われずに済むか。なにをどう考えればよろしいのか。

 戦後派作家たち、および第三の新人作家たちによる、戦争期の傷痕の検証が峠を越えたころ、「敵が見当らぬ」「敵を見定めがたい」時代になったと、しばしば指摘されるようになった。江藤淳以下、先に掲げた論客たちは、なんらかの意味でこの風潮を自覚して仕事をした。なんらかの意味でどころか、その問題こそを中心課題に据えて出発したのが、山崎正和だった。

 旧満州国に育った。十一歳のとき、ふいに参戦したソ連が侵攻してきた。暴虐の限り、悲惨このうえない場面を眼にした。父を亡くした。命からがら引揚げてきて、あとは母子家庭だった。
 山崎正和にとって、はなから歴史とは人を裏切るものであった。この世とは理不尽なもので、人間は単一の倫理、ひとつの理想で生きることなど許されていない存在と見えた。
 主人公を中心に同心円を広げてゆくような、小説を書く人の気が知れなかった。双方互いに理解も共感もできぬ複数の中心が、それぞれに覇を競って同時存在する劇の世界にしか、興味が湧かなかった。

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 世界とは、根柢的に矛盾する、けっして相容れることのない複数の理想の同時存在である――。究極の美だの、絶対的な真だの、無際限の善だのを、ついつい想い描きがちだった感傷的な高校生に、この一冊は少なからぬ影響を残した。
 ドラマ論としては、むろん木下順二世界を考えるとば口として。時代の崖に対峙して、いかに精神の自由を保持するかという課題に沿って、やがて福田恆存へと入ってゆくとば口として。複数の焦点によって成立つ楕円的世界という、世界把握の思考技法について、やがて武田泰淳花田清輝後藤明生へと入ってゆくとば口として。

 『平家物語』の取上げかたにも、まことに感嘆久しうしたものだった。小林秀雄『無常といふ事』から来てるなこれは、なんぞと自力で視破れるようになったのは、ずっと後のことだ。