一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

気の毒

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プラトン(前427ころ-前347)

 美しい青年は得であるか? 師から、より多くのことを、授けていたゞけるものなのか。だとしたら俺は……。

 プラトンに『パイドロス』という、お奨めの問答篇がある。さほど長くもなく、読みやすい。有名な『パイドン』とは別物である。『弁明』『クリトン』とは違って、入門篇として教科書に採りあげられたりはしないが、面白さでは引けをとらない。

 「だれかと思ったら、そこへ行くのはパイドロスじゃないか」
 「いゝところでお会いしました、ソクラテス。かねがねお噺を伺いたかったのです。これからお時間ありますか?」
 「私は若者とトークすることが、なによりの愉しみなんだ。ましてや君のような美しい若者から誘われて、この私が、ことわるはずがないじゃないか」
 この辺が、ちょっと怪しい。教科書に採りあげられないのは、案外この辺の事情かもしれない。

 小高い丘の大樹の根かたに、二人は腰を降す。近くを川が流れ、気持よい風が渡ってくる。この日のソクラテスはノリノリで、興味あるQ&Aがいくつも交されるが、なかにこんなのがある。好きな箇所だ。

 「文字というものはエジプト人の発明と聴きましたが、それ以前の人たちの暮しは、さぞや不便だったことでしょうねえ、ソクラテス
 「いやいやパイドロス、そこは考えものだ。どんな時代だって、人は精一杯生きてきたんだ。文字を持ってしまった我われがその時代へ迷い込んだりしたら、そりゃ不便だろうさ。けど文字という考えそのものがなかったんだ。そのなかで彼らなりに心を働かせて、全力で暮していたことだろうさ。記憶力とか理解力とか、おそらくは今の我われとは比べものにならぬほど、優れていたことだろう。不便なんぞ、感じてはいなかったと思うがね。なまじ文字を知ってしまったがゆえに、我われがかえって失ってしまったものが、大きいのじゃあるまいか」

 定年近くなってからのなん年間か、私の言葉が若者たちに通じなくて、しばしばうろたえた。また彼ら同士が交流している言葉を、傍で聴いていて、それで通じているのかと、不思議に感じる場面もあった。
 二人の作家の文章の違いはなんですか、とのお訊ねに対して、スピードが違いますと答えても、まず理解してもらえない。色彩感覚が違うでしょうと答えたりしようものなら、なおさら通じない。

 反対に、彼ってイタイ人だよねと云われても、解ったような解らぬような想いがする。ザンネンナ人だよねと云われても、同様だ。典型的にイタイ人と典型的にザンネンナ人との違いであれば、語源からの推測で、かろうじて思い浮べられる。が、その中間、境界はとなると、私には無理だ。
 おそらくは画像や映像から受取った表情なり人間像なりを、感覚的に消化した者同士が、共有するニュアンスを言葉に表して、交流しているのかと思う。視聴覚世代の到来であり、デジタル世代の到来でもある。

 ソクラテス老人のご指摘を拝借するならば、若者たちにとって私は、文字発明以前の人間ということになる。そしてイタイ人でもザンネンナ人ですらもなく、たんに気の毒な人なのだろう。