一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

チョコレート・コンプレックス

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カレ・ド・ショコラ(左から)クラシックビター、カカオ70、カカオ88。

 私自身は、米軍兵に「ギブミ―・チョコレート」とねだったことはない。そういう情景を実際に眼にしたこともない。
 横浜桜木町に育ったから、ジープに乗った米軍兵など、日常的に眼にした。が、ギブミ―・チョコレートの時代は、すでに了っていた。

 貴重で高級な菓子の感じはあった。一度にたくさん食べては、いけないものだった。それどころか、めったに口にする機会もなかった。
 「食べ過ぎると鼻血がでるよ」
 親からは、そう云われた。明治ミルクチョコレートのパッケージ・カラーには、今でもかすかに心が騒ぐ。ロゴはずいぶん変ってしまったが。

 おゝかたの同級生が受験準備に夢中のころ、兄弟もなく家で過すのも苦手だった私は、小遣いの許す限り、映画館か喫茶店を渡り歩くしかなかった。行きつけの一軒が、新宿「ヴィレッジゲート」だった。
 モダンジャズのレコードが聴ける店はほかに何軒もあったが、「ゲート」にはお気に入りのウェイトレスがいた。真黒な髪が長く、痩せぎすの背中までまっすぐ伸びていた。立ち居振舞いに神秘的な暗さがあった。カルメン・マキに似ていると思った。
 カルメン・マキが唄う「山羊にひかれて」「時には母のない子のように」が好きだった。

 私服に着換えた米軍兵といった感じの、黒人青年たちがしばしば姿を見せた。朝霞駐屯地が、まだあった。
 馴染らしい二人が白い大きな歯を剥き出しにして談笑しているところへ、オイ来てやったぜというように、初来店らしい青年が入ってきた。腰掛けるなり、機関銃のようにお喋りが始まった。
 ウェイトレスが近づき、脇に立った。お喋りに夢中の青年には、注文など面倒臭げだった。
 「チャコ」「えっ」…「チャコゥ」「えっ」
 ウェイトレスが聴き取れないのだと、ようやく気づいたのだろう。青年はやゝゆっくり丁寧に、云い直した。
 「チャコラット」「えゝっ、チョコレートぉ?」彼女は立ち往生したまゝだった。

 さほど離れていない席の私は、口添えすべきだったろうか。
 「ココアのことだよ」と。
 「イクスキューズミーガイズ ドリンキングホットチョコレート イズコールド ココア インジャパン」と、中学生英語を組合せて。
 私は黙っていた。照れ臭かったし、気後れしてもいた。脇に置いたショルダーバッグには、翻訳本のノーマン・メイラー『ぼく自身のための広告』が入っていた。
 この場面は、記憶に残った。

 「ヴィレッジゲート」の筋向いは、喫茶店「王城」だった。店名どおり石積みの外装。ひと隅は円柱状の塔になっていて、円錐形の屋根がそびえていた。映画で観る西洋の城そのまゝだった。店内も薄暗く、入組んだ構造だった。
 時代は少し下るだろうが、リービ英雄さんは、この店でのアルバイト経験がおありという。早稲田大学の留学生のころだろうか。
 彼の初期短篇に、こんなのがあった。日本で学ぶからには、現代風俗文化に触れたい。新宿を歩いてみたい。しこたま読んだり観たりした。が、まだ覚悟が定まらない。ある日ついに決心。山手線で新宿駅。扉が開く。脚を出す。プラットホームに、踵が着いた。このときシンジュクが新宿になった、というサゲなのだが、解りやすくて、とても好いと思った。

 現代風俗文化かぁ、と改めて思う。自分は中心からどれくらい遠ざかったのだろうか。ぼんやり想いながら菓子売場を過ぎようとして、チョコレートが眼に入った。驚くばかりに多くの、多彩な商品が並んでいる。初心者には糸口が摑めない。
 なになに、ワインに合うチョコレートだって。女性客当込みだな。パッケージも女性用小物さながらじゃないか。ジンなら解る、ウィスキーなら解る、焼酎なら解る。ワインを飲むくらいなら、私は日本酒でけっこうだ。だが、チョコレートは好きだ。

 クラシックビター(21ピース)一枚当りカカオポリフェノール84ミリグラム。
 カカオ70(21ピース) 〃 110ミリグラム。
 カカオ88(18ピース) 〃 150ミリグラム。(いずれも森永製菓商品)

 手始めに同一シリーズ商品からと思ったのだが、なるほど、これほど味に違いがあるものだったか。それぞれに美味い。もう一枚ずつ試すか。
 しかし思い出の中の明治ミルクチョコレートには及ばない。人間だもの、仕方がない。もう一枚ずつ試すか。
 むろん、ワイン限定とは認定しない。強引なコンセプトだ。もう一枚ずつ試すか。
 本社の商品開発会議の方針かなあ。それともコピーライターがひねり出して、プレゼンに掛けたのか。いずれにせよ、いかゞなものか。もう一枚ずつ試すか。

 夜中の台所でジジイが独り、ブツブツ云いながら、チョコレートをむさぼり食っている図は、いったいどうなんだ。まだ鼻血は出てこない。