一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

無沙汰がち

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 老人や病人の脇に控えるべきは誰か。親しければ好いってもんじゃなかろう。

 可久君から、食膳の花ともいうべき逸品のご恵贈に与った。暮れ正月、老人独りの籠城暮しには、またとないお味方だ。お礼の言葉もない。
 学生時分からの仲間だが、この数年は繁く顔を合せたりはしていない。身近な存在として、それとなく消息に注意を払ってはきたけれども。

 ジャズ・ミュージシャンにして作曲家である。芸術大学の先生もしている。文筆業もする。堪能な英語を活かして、受験塾の先生をしていた時期もあった。けれどいろいろやっても、長く不遇だった。お互い不遇同士、私とはのべつつるんで、飲み歩いていた時代があった。
 芸術学の博士号を取得したあたりから、長年の地道な蓄積に光が当り始め、教室のお弟子さんも増えてきて、全国を股に掛けて活躍するようになった。私は、付合いを遠慮するようになった。超過密な多忙人の邪魔は無粋というものである。

 陰ながら懸念していたことが、彼の身に起った。脳梗塞で倒れたのだ。同じ発作を私は四十二歳で起したが、若かったのでリハビリの効果も上り、予後も良かった。十年かけて後遺症も抜けた。が、彼は相応の年齢での発作だ。闘病は難敵と思われた。
 すぐさま駆けつけようと、当然思わぬではなかったが、遠慮した。こんなときの見舞いは煩わしいだけで、安静の妨げになりリハビリにも邪魔と、自分の経験から承知していたからだ。

 幸いにして彼は、私と違って、ご家族に恵まれていた。それに今では、彼を大切な師と仰ぐ、有能有力なお弟子さんたちも、全国に散らばっている。病気のときは、そういう人たちに囲まれて過すのが好ましい。下手に昔を知っている悪友なんぞが、でしゃばらぬほうが、養生の助けというものだ。彼と面談する機会は、私にはますますなくなった。

 私が勤めていた零細出版社の社長は、その昔、とある出版社で山本七平さんと同僚だった。
 「山本と俺とは特別な仲なんだ。俺が頼めば、山本はなんでも無理してくれるさ。お前、紹介してやるから、着いて来い」
 山本さんは聖書研究書専門の小出版社「山本書店」社主だったが、当時イザヤ・ベンダサン日本人とユダヤ人』が大当りした直後で、評論家山本七平ブームだった。奥まった書斎で面会してくださりはしたが、入口近くの待合室には、予約面会者が何人も待っていた。電話もひっきりなしに入ってきた。
 我が社長は「あのころはお互い苦労したが、愉しかった」などと話して尽きなかった。「そうそう」と、山本さんはにこやかに対応してくださった。表面上は。
 若き日に同じ釜の飯を食った間柄とはいえ、出番がいつかやって来る社主といつまでもやって来ない社長との違いを、私はそのとき、この眼にしかと視た。

 なん年かして、我が社長の口から「山本は、変っちゃったんだよなあ」と呟きが漏れたときには、「人が変ったんじゃねえよ、立場が変っただけだよ」と心の裡で反論した。

 半世紀も酒を飲んでくると、古馴染みの店主だのママさんもできる。頻度・酒量とも昔日の比ではないから、当然間遠になり、無沙汰がちとなる。行く店ごとに「よく憶えてたねぇ」「あらぁ、生きてたのぉ」が挨拶代りとなる。
 そんなときカウンターに陣取って、昔噺に興じるのは下の下、無粋の極みである。店にとって大切なのは、今来てくれている客、現在の店の雰囲気を作ってくれている客たちであって、昔馴染みなどではない。薄情というのとは、これは違う。
 「俺とは古いよね、マスター憶えてる? あのころはさぁ~」
 酒場で、もっとも耳にしたくない、聴き苦しい台詞のひとつだ。

 加えて病気となればなおさらだ。今の可久君には、先生々々と慕ってくださるお弟子さんがたに囲まれて、ご家族のお助けを得て養生するのが、精神衛生上もよろしい。悪友は邪魔である。
 で、なにか穴埋めの無沙汰挨拶をすると、食膳の花が還ってくるというわけだ。

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 今回の花は「浅草今半」。可久君ご存じなかったろうが、私の常用取引店だ。むろんお使い物専用で、自分用の買物をする機会はない。たゞしポイントが貯まると、商品から一点をいただくスタンプカードを所持していて、これが満杯になったときだけ、自身で味見に及ぶ。
 冒頭写真左端の「味のしおり」二枚は、私の手で「本のしおり」に加工されることになる。(7/23日記「かつてほど」に書いた。)

 ところで、もし配送伝票係のお眼にとまったら、ご心配をおかけしていたのでは?
 「あれぇ、この人いつも送り主で、宛先だったことなんかないのに、間違いじゃないの? 一度確認したほうがよくはないかしらん」