一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

じつは嘘

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いただく順に迷う!

 魚とりどり詰合せを贈っていたゞいた。バターソテーをクリームソースで、なんてことを、私はけっしてしないから、すべて焼魚としていただくことになる。
 一週間以上ぶんも、魚の目処がついているというのは、なんと満たされた気分だろうか。

 贈ってくださったのは、片倉健さんといって、今は大塚で居酒屋の親爺みたいなふりをしているが、もとは池袋で長く続いたジャズバーのマスターである。
 学生ジャズバンド上りの、いわば根っからのジャズ屋で、ごくお若いうちに、西池袋で一軒目を開店した。その後、椎名町に移った。いずれもマスターの人柄そのまゝに、飾り気も気取りもない、居心地の好い店だった。
 やゝ古めの、ゴキゲンな、いわばジャズがもっともジャズだった時代のジャズマンや演奏がお好みで、そのあたりのレコード・コレクションには眼を視張るものがあった。

 椎名町のころ、病気に見舞われた。ステッキを携えるようになった。冬はスキー、春夏秋はテニスと、一年中スポーツに興じていたのに、すべて諦めねばならなかった。
 お気の毒に。どうするのかしらん、と視ていたら、油絵を描き始めた。狐に抓まれた気がして訊ねてみると、子どもの頃は画を描くのが大好きだったのだという。

 やり始めると粘って頑張るたちで、日本近代絵画史の本には必ず出てくる太平洋画会(今は美術会と改称)研究所に通い始めて、めきめき腕を上げ、作品号数も巨きくなっていった。そのするうちに会員だか会友だか、私にはさっぱり解らぬことになって、年次展覧会でも、眼を惹く場所に巨きなタブロ-が展示されるようになっていった。

 とはいえ仕事の面では、苦労が絶えなかった。椎名町が家主との契約切れになったが、次の適当な物件がなかなか見付らず、おりしも闘病期だったこともあって、何年も営業再開できなかった。料理店の厨房に勤めたりして、かつかつ凌いだ。
 後年振返れば、そうした経験・見聞は、無駄にはならなかったのだけれども。
 ようやく池袋で開店できた。それからがどっしりと長く、世には池袋のジャズバーのマスターとして、知られるわけである。

 さて魚を、いかなる順番でいたゞくか。なんとも愉しい困惑である。
 自分で買うことがあるのはサバくらい。ごくたまにタラに手が伸びるかどうか。タイとブリは、まずありえない。いずれ劣らず、大好物なのではあるけれども、身分違いと怖気づく。
 片倉さんと二人して、石松寿司の付台のこっちに腰掛けて、一杯やってると想像する。まずは白身か。となればタイだ。で、それからサバだな。
 「親方は、カンパチ、ヒラマサ、このあたりを凝るよねぇ。今日はなにかと観れば、ブリじゃないの。よし、締めはそいつで」

 けど寿司じゃねえんだ、焼魚だからなあ。どうしたもんかなあ……。
 じつは嘘。冒頭写真を撮影したのは一昨日のことで、今はもう、タラとサバが一個ずつ、ない。