一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

種まいた人

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醍醐敏郎十段(1926‐2021)

 嘉納治五郎講道館を創設してから今日までに、事実上の最高位たる十段にまで昇り詰めた日本人は十五人しかない。そのお一人が、今年他界された。

 時たま父を訪ねてみえる巨きな人が、全日本選手権を連破した柔道家だと聴かされても、その意味合いを理解するには、私は幼過ぎた。すでに現役引退されていた。拙宅近所の城西高校柔道部へご指導に見えられた帰りに、お寄りくださったのだったろう。

 小学生になってある年の正月、講道館の鏡開きに呼んでいたゞいた。丸ノ内線後楽園まで独りで伺ったということは、高学年にはなっていたのだったろうか。
 受付で「誰の紹介でやって来たか」と問われて、「醍醐さん」と答えたら、居合わせた大人たちが血相を変えるように慌てて、「醍醐先生、醍醐先生」と散っていってしまった。やがて醍醐さんが姿を見せて、おゝこっちから入れと招じ入れてくださった。
 こゝでは醍醐さんを、先生と称ばなきゃいけないんだと、気づいた。

 何百畳あるか数えられない大道場の中央を空けて、人びとは周囲に正座して、幾組もの形を見せてもらった。最後が三船久蔵十段という白髪のお爺さんによる「古式の形」。えらくゆっくりした、儀式ばった形で、こんな動きで、柔道ができるものなのだろうかと思った。
 演武が了ると、全員同じ方角を向いて坐りなおして待っていると、お汁粉のお椀が配られた。何百人もの、顔も知らぬ大人たちと、お汁粉をいたゞくのは、妙な気持のものだった。もちろん、味など憶えちゃいない。

 高等師範(筑波大前身)のご出身で、全日本を連破。となれば、大学・県警・実業団から誘いの手は数限りなく伸びてきたことだろう。が、醍醐さんは、講道館から軸足をずらさなかった。警視庁や大学で師範をされたが、飽くまでも「講道館の醍醐」で通された。
 後進の指導には、ことのほか熱心であられた。たしかご自宅に、有望な高校生を預かったりもされたと、聴いた気がする。ナショナルチームのコーチもなさった。

 「オランダのヘーシンク選手って、そんなに強いんですか?」
 東京オリンピックの直前だったかに、質問したことがある。
 「強い」言下におっしゃった。「神永が行っても、猪熊が行っても、負けますね」
 「じゃあ、日本の宿敵なんですね」
 「いや、あの青年は、できた柔道家でね。強いのは試合だけじゃない。その面でも、日本選手はヤツに敵わんでしょう」
 当時はまだ、日本の柔道選手が外国選手に負けるなどとは、想像もできない時代だった。宿敵を褒める醍醐さんを、不思議に思った。

 ちなみに、ヘーシンク選手も後年、十段にまで昇られた。日本にすら歴代十五人しかいない十段位。世界ではもっと珍しい。ヘーシンクさんは、そのお一人となった。

 醍醐さんは、ほゞ毎年のように世界各地へ出張していた。アメリカ・カナダだ、フランス・スペインだ、ソ連ポーランドだ、ブラジル・アルゼンチンだと。帰国のたびにお土産噺を伺ったはずだが、残念なことにおゝかた忘れてしまった。街を歩いていて、すれ違う普通の女性たちが美人ばかりなのは、なんといってもスペインだと、それだけ記憶している。
 モントリオールとロサンゼルスのオリンピックでは、柔道ナショナルチームの監督をなさった。

 およそ六十年。現在はフランスでもブラジルでも、柔道の競技人口は日本よりはるかに多い。国際大会で、日本選手が勝つには、たいへんな努力を要する。
 醍醐さんや、志を同じくする後輩がたが、長年にわたって世界を飛回り、種を蒔き続けた大功績の結実である。
 副作用も数かずあった。普及するうちに、ルールにも判定・評価にも、世界基準が形成されてくる。必ずしも日本基準に一致しない場合も生じてくる。いわゆる国際柔道連盟全日本柔道連盟(=講道館)との食違い問題だ。お国柄による美意識の相違もある。この面でも、醍醐さんはおゝいなるご苦労・ご心労を背負い込まれたことだろう。

 庇を貸して母屋を取られたというような、幼稚浅薄な批判をするヤカラもある。やがて負かされるくらいなら、教えなければよかったじゃないかと。
 たとえば剣道界は、世界にフェンシングが先行普及していたこともあってか、柔道界ほど海外普及に熱心でなかった。それはそれでひとつの見識であり、美意識ではある。
 だが柔道家たちが考えたのは、そういうことじゃない。たんなる試合の勝ち負けではなかった。文化が広まるとは、いかなることかという問題だ。

 古代ギリシアは、大きな国でもなく、とりたてゝ長く栄えた国でもなかった。が、植民した地域や、隣接した国ぐにへと、文化が広まった。広い地域の人びとや、後代の人びとまでもが、ギリシア語とギリシア的思考方法をもって考え、ギリシア的美意識をもって創作した。自分流と信じて、じつはギリシア風に生きたのである。
 対してローマは、はるかに強い国だったが、領土拡張と教会宗教の無理強いにしか興味を持たなかった。覇権の及ぶ範囲こそ広大に拡張されたが、ローマ人のように考え、判断する人など、他国にはいなかった。ローマ人を目処に創作する芸術家もなかった。いやその前にローマ人の芸術にしてからが、そもそもは意識的・無意識的にギリシア人の劣悪模倣に過ぎなかった。

 文化が伝播すれば、遅かれ早かれ本家をしのぐ分家も出現する。本家の意のまゝにならぬ世界基準も形成されてくる。国際柔連vs.講道館の問題には、我ら素人には窺い知れぬ奥深き諸問題があるのだろうが、根本は、文化が伝播し根付き、各地に芽を吹いたということだ。
 観てらっしゃい。近ぢか世界のあちらこちらから、日本人としては認めがたいような、ゲームやアニメやコスプレが出てきますから。もし出てこないようなら、初めから生命力ある文化ではなかったんです。

 ともあれ、日本選手が頭を抱えるほどの選手が、やがては各国から次つぎ出てくるようにと、はるか以前に懸命に種を蒔き続けた、偉大な十段が、本年十月十日に永眠された。享年九十五歳。
 「葬儀に関しましては 新型コロナウィルス感染症の影響により 家族のみで執り行わせていただきました」と、奥様静子様よりのお報せ状にある。