一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

冬枯

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冬枯や 去にし名も香も 黙しをり

 国木田独歩が描いた武蔵野は、今の渋谷駅周辺。新宿も渋谷も、府心を出外れた郊外だったわけだ。
 武蔵野を代表する、というか象徴する樹木といえば、ケヤキである。昔はもっと、いたるところに立っていたのが、東京都市開発のなかで、数限りなく伐り倒されていったのだろう。
 だからというわけではないが、街路樹であれ庭木であれ、ケヤキが好きだ。並木道も、神社仏閣の大樹も、鉢植えの盆栽樹でさえ、一様に好きだ。

 庭木でも盆栽でも、樹木の王といえば、そりゃあ松だろう。ケヤキをはじめ落葉広葉樹は、一段低い存在と、看做されがちだ。盆栽の世界では、松、杜松、真柏などは単独部門なのに、ケヤキは他の広葉樹類と一緒くたに、雑木盆栽と称ばれる。
 梅、ボケ、サツキなどの花物や、姫リンゴ、マンリョウなどの実物は、観どころがはっきりした、いわば色物だが、雑木類はそれよりさらに地味な部門とされている。
 が、じつは落葉樹類ならではの愉しみがある。春の芽吹き、秋の紅葉、それに冬枯れと、年に三回の観どころがやってくる。とくに冬枯れ。葉を落し切って幹と枝だけの姿で、寒気のなかに立ち尽す孤影には、胸打たれる。断然松とのみ信じ切って、他に眼が行かぬ人は、まことにお気の毒というほかない。

 冬枯れの姿のなかでも、ケヤキは格別だ。枝先がかならず二股に分れる、それぞれがその先で、また二股に分れる。けっして三股・四股あるいはそれ以外に分れることはない。ケヤキだけの特性だ。
 その結果、天に向ってすっくと立つ樹形が、他の樹木にはありえぬ姿となる。股覗きすると、箒で天を掃いているように見えることから、箒立ちと称ばれる。その成長樹形を盆栽鉢に再現させたものが、箒仕立てである。
 風もない冬晴れの朝、身を切る冷気のなかに箒立ちする巨木を眼にすると、あゝ人間はこうまで美しくあることはできぬと、しみじみ想う。

 ご近所にも、ケヤキはさほど多くはない。成長樹が占有してしまう面積の点で、個人宅の庭木には不向きだ。駅方向へ七分歩けば、長崎神社に二株か三株。駅と反対方向へ五分歩けば八幡様の境内に一株。そこから二分でフラワー公園に二株。さらに五分で、地蔵堂あたりに一株。それやこれや目ぼしい大樹となると、指折り数えられるほどに過ぎない。

 姿においてはケヤキに遠く及びもつかぬが、拙宅の桜だって冬枯れしている。老残の姿を晒して、だらしなくうたゝ寝しているかのようだ。
 しかしさように眺めるのは人間の眼ばかりで、じつはコイツ、来春の芽はとっくに着け了っている。どの細胞がやがて花となり、どの細胞がゆくゆく葉となるか、プログラムはセット完了している。抜目のない奴だ。

 たゞ私の眼には見えない。自然界の出来事のおゝかたは、私なんぞの眼に見えたりはしない。眼にできるのはごくごく一部の、そのまたほんの一部に過ぎなかろう。核心はいつも、隠されている。
 肝心なことは、眼に見えないんですよ。そんなことわざわざ、星の王子様から教わらなくたって、拙宅の老木だって、云っている。