一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

気立て

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 ご近所の奥さまから、りんごをいたゞいた。福島県のお知合いから箱で届いたので、お裾分けとおっしゃって。果物屋に上等品として並んでいる、大ぶりで持ち重りのするりんご、なんと三個もだ。
 「線量チェックは済んでいるそうです」とつけ加えられた。福島県産品を贈答するさいの常套句として、なかば習慣化もしくはマナー化した言葉だという。
 生産・流通に携わるかたがたの商用や気遣いに発した云いまわしだろうが、耳にして哀しい言葉である。

 ♪リンゴは何にも言わないけれど リンゴの気持はよくわかる

 ご存じ「リンゴの唄」(サトウハチロー作詞)。戦後日本映画の第一作『そよかぜ』(松竹大船、佐々木康監督)の挿入歌で、戦後最初のヒットソングだ。
 云わなくたって、気持は誰も同じだったのだ。まだ復員してない者もあった。骨になって帰還した者さえも。目や耳が、手や脚が、不自由になって帰って来た家族を抱えた者もあった。家や家財や老人を、逆巻く炎に失った家族もあった。
 泣きごと恨みごとを云い出したら、きりがなかった。ひとたび口に出してしまえば、とめどなくなってしまう。だから誰もが、口をつぐんだ。黙って耐えた。
 ふと脇へ眼をやったら、ほら、りんごだって黙っていたのである。
 
(二番)♪あの娘よい子だ気立てのよい娘 リンゴによく似たかわいい娘

 リンゴのように黙って辛抱して、よく働く、気立ての好い娘。これが好感を持たれる娘さんの、第一条件だった。最新流行に敏感なファッション・センスでもコスメ技術でも、知的キャリアを感じさせるクール・ビューティーでもない。

(四番)♪歌いましょうかリンゴの歌を 二人で歌えばなおたのし
    みんなで歌えばなおなおうれし リンゴの気持を伝えよか
    リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

 自分一個の呪詛の想いを口にすれば、ほんのいっとき気は晴れるかもしれぬが、その言葉は誰かを傷付けるかもしれないし、迷惑をかけるかもしれない。だからせめて、一緒に唄を歌おうと云っている。
 国破れて山河ありの状態だった庶民が示した、精一杯の民度だったろう。

 東日本大震災で、食器棚の引戸を開けっぱなしにしていた私のだらしなさから、多くの陶磁食器類が床に砕け散った。台所の隅の高いところに祀ってあった荒神様(いわば神棚の支社)が歪んで、もとに戻らなくなった。陋屋のあちこちに、ヒズミかヒビが生じたのだろうか、台風時期になると天井に染みが出るようになった。
 数え挙げたところで、せいぜいがその程度。精神的ダメージだの後遺症だのと、云うには当らない。

 が、おそらく被災地は逆で、たった十年程度では、復興など覚束ないことだろう。ライフラインだの交通網だの、視た眼のインフラが恢復したところで、口に出すを憚る幾多の問題が、積み残しとなったまゝに違いない。今なお、りんごのように黙って、たゞひたすら躰を動かしておられるかたがたも、さぞや多かろう。

 「線量チェックは済んでますから」こんな台詞を、福島県のかたがたに、いつまで云わせておくつもりか。県外の人間、つまり私の、いや現代日本民度の底が知れるというものではないのか。
 今夜、一個めのりんごに、包丁を入れる。