一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

カフス

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 高級な料理や美味い食材を知ってしまっているので、安っぽい味はどうも舌が受付けない、などとおっしゃるかたを、少し観察させていたゞくと、たいていは嘘か、さもなければ見栄である。

 ラジオ深夜番組「パック・イン・ミュージック」で、桝井論平さんがおっしゃったことがあった。ご出張だかご旅行だかでヨーロッパ各国を移動するとき、その国の空気を感じるために、まず理髪店に飛込むそうだ。浮世床である。私が高校生だったから、十年先輩の論平さんは、まだ二十代であられたはずだ。番組でご一緒された永六輔さんから教わって、実行してみたとのことだった。
 永さんからは、こんなことも教わったそうだ。美味いものや、身分不相応に高級な料理も、もしチャンスがあったら、できるだけ食っておけと。一流レストランの料理と学生食堂の定食との、両方の味を知っておくことが大切だと。

 会社員時代、零細A社では広告と商品企画を、零細B社では出版編集から営業廻りまでも、担当した。役目がら自分の給料とは桁違いの高額を、右から左へと動かすこともある。伸び盛りの零細においては、たとえ利益率が下っても、売上げ規模を伸ばすことが至上命令だった。先行する競合他社を出し抜くためになら、散財をもいとわぬ時期が続いた。
 いわゆるあぶく銭を懐にして、自分の金のような顔をして使った。屈辱的な男芸者稼業をも辞さなかった。衣食住のうちの、衣と食には気を遣った。

 年月を経て振返れば、人として不可欠な経験など、なにひとつない。身に残る好ましき性癖も習慣もない。
 あるとすれば、自他ともに認める貧困老人になり果てた今となっても、衣食における裕福を羨む気がまったく起きぬことくらいだ。美食やハイセンスにたいして、いさゝかの憧れも嫉妬も、湧いてこない。
 セール品、お徳用、只今増量中、家計支援商品、タイムサービス、在庫処分市、店仕舞セール……。漏れなく大好きだ。十分に美味いし、着心地悪くもない。納得の自炊独居生活だ。

 といっても、一流商品を眼のかたきにしているわけではない。進物として、有名店による美味のご恵贈に与ることがある。「珍しき貴重なお品ありがたく」と、社交辞令でなく、本心の礼状をしたゝめる。
 有名店にもディスカウントスーパーにも、美味いものはあるという、あたりまえのことに過ぎない。安物には美味いものがないとうそぶくご仁は、嘘つきだと思う所以である。

 会社員時代に流行したスーツは、スリーピースだった。同一生地による上下とベスト。基本は濃紺地に銀のストライプ。胸ポケットのチーフをネクタイに合せる、などということもやった。ワイシャツの袖口はほゞダブルである。禁酒法時代を描いたアメリカ映画の、アル・カポネやエリオット・ネス、さらに『ゴッド・ファーザー』のマフィア・ギャングたちの、あのスタイルである。
 洋服箪笥の隅っこから、処分し忘れていたネクタイやカフス・ボタンがひょっこり出てきたりして、虚を衝かれることがある。当時、ひそかに自慢だったカフス・ボタンだったりする。そういえば俺って、こんなの身に着けてたんだよなぁと、かすかな感慨も湧く。

 冠婚葬祭で年に数回、ネクタイを締める。二度とふたゝびネクタイなんぞするもんかと、足を洗って何十年にもなるというのに、姿見がなくとも、眼をつぶっていてでも、ネクタイを締めることができてしまう自分が、なんだか哀しく感じられることもある。