一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

変奏

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サマセット・モーム(1874‐1965)

 蟻とキリギリス、といえば、有名なイソップ寓話。働き者の蓄財家と享楽的な浪費家との対照により、勤勉の大切さを諭した噺だ。ところが現代では、どうもこの教訓が捻れてきているらしい。

 モームに、題名もズバリ『蟻とキリギリス』という短篇がある。
 目はしが利くでも世故に長けるでもなく、たゞひたすら家族を思いやって誠実勤勉に働く、兄ジョージは弁護士。弟のトムは眉目秀麗にして性格明朗、初対面の相手でさえきっと惹きつけてしまう交際術にも長けている。
 たゞしトムは、けっして正業に就こうとはせず、ダンスや賭博に明け暮れ、兄の忠告に耳を貸さない。借金をする名人で、なぜか借りられた相手から憎まれたり恨まれたりもしない。ジョージからも、これが最後、きっと改心すると云いくるめては、いくたびも金をむしり取ってゆく。

 「金輪際、融通は断る。お前のために、ならないから」
 「今回の返済ができないと、兄さん、ぼくは牢屋行きだ。そうなったら商売柄、兄さんの世間体が……ほら、ぼくを訴えている債権者がやって来た」
 「今回だけだぞ。債権者さん、弟には金を渡せません。私からあなたに直接お支払いしますから、訴訟はご勘弁ください」
 大金を受取った債権者は、約束の場所でトムと落合い、二人してカジノに居続けの豪遊をした。

 性根まで腐りきったトムには見どころがない、二度と支援してはならない、義絶したまえ、君は人が好過ぎる……友人たちは口ぐちに、ジョージに忠告した。あゝそうするよ。それにしても困った、じつに困ったと云いながらも、ジョージにはまだ、どこかしらに余裕があった。
 ところが(と、じつはこゝから一篇は書き起されるのだが)友人がしばらくぶりに視たジョージは、眼も虚ろに宙を視詰めて心神喪失。それまでの「困った、困った」とは比べものにならぬほどに生気を喪い、憔悴していた。
 またなにか、トムにやられてしまったのだなと予想しつゝ、友人は理由を訊ねた。

 「長年わずかずつの積立てを投資に回して、年金を確保し、退職後は妻と二人して田舎へ引込んで、穏やかな毎日を送る。それが夢だった。いや、その夢は実現できそうなんだがね。でも君、聴いてくれたまえよ。
 トムのやつは、母親くらいに齢のはなれた大金持ちの女と結婚しやがった。その妻が死んで、使い切れないほど莫大な遺産が残されてね。アイツは毎日、たゞぜいたく三昧に暮しているんだ。そんなことがあって、いゝもんだろうか。ねぇ君」

 小説は、鋭利な刃物で断ち切られるかのように、そこでスパッと終る。あとは読者が想像する領域である。
 「困った、困った」口癖のように連発するジョージを支えていたのは、兄弟愛というよりは、自負心、被害者意識、自己英雄視、優越感、ひと口に申せば自分への憐憫であり、つまりは自己愛だった。
 年金による穏やかな老後の夢は、ほゞ叶う。が、トムのなりゆきを知ってしまった今、かつての夢は、同じ輝きを放ち続ける夢ではありえなくなってしまった。ジョージを打ちのめしたのは、トムの生き方ではない。人からはけっして感づかれぬようにしてきた、自身の優越感と嫉妬心だ。

 サマセット・モームはカラい。渋い。大人の文学である。

 ところで、現代日本には、こんな変奏もあるそうだ。
 寒い季節となって、空腹に耐えかねたキリギリスは、恥も外聞もなく蟻の家の扉をノックした。くり返し呼び掛けても、中から応答はない。しかたなくキリギリスは、垣根の木戸を開けて、裏庭へと回り、窓から覗いて視た。
 食糧は棚にぎっしり詰っている。暖炉に火は燃え、十分に温かそうだ。その部屋で、蟻たちは皆、過労死していた。
 (教訓)明確な目的意識を持たざる、むやみな労働は、いたずらにストレスを増幅させる。

 酒場ジョークで耳にした噺だから、いつ誰によって唱えられた説かについては、責任がもてない。