一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

まとも

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 古来の手造りとは、似ても似つかない。けれど手作り感の温もりを演出してある。なるほど、これが現代の「まとも」というものか。

 従兄が日本海の海産物加工品を贈ってくれる。ありがたい。大好物だ。
 私より年長の従兄で、旧家の跡を取った。今は住宅地といっても、もとは農村。自給自足程度の畑があり、母屋以外に土蔵や作業場や納屋もある。
 役所を定年まで勤め上げた。地域の世話役としても、なにかと骨を折った。定年後は防災や地域衛生の方面で、活動した。
 息子も娘も出来が良く、県外の大学にまでやった。息子は父の志に学んだものか、今では役所からの依頼仕事を受けながらも、県内の大学で都市計画や地域防災の講義をする専門家になった。

 「ことしは作柄も良く、まずはホッとしています。町もいくらか元気です」
 「このたびの大雪で、前庭の柿の木が折れました」
 「去年の大地震で蔵が傾きました。修理にはえらく金が掛るので、このさい取壊そうかと考えています。今どき蔵という時代でもないので」
 「子らも孫らも、まずまず元気ですが、私の体力は、めっきり衰えました」
 従兄からの来信には毎年、しっかりとした地面がある。風土がある。
 私からの返信には、つまらぬ人事世界しかない。せいぜいちょいとした心境が添えられる程度だ。生き方は勝負ごとではないけれども、なんとなく「勝負あったな」との想いがある。

 父方も母方も、祖父は百姓だった。
 「百姓」は侮蔑語であり禁止用語だとする人や放送局がある。不愉快だ。姓(かばね)とは、もと職能や使命役割を示した位階を意味する言葉である。
 祖父は屋根も葺けたし、荷車も造れた。川から田への灌漑水路も造れたし、休耕地の畦を突き固めて道も造れた。祖母だって、味噌・醤油は自宅で作ったし、お蚕さんも世話したし、紙も漉いた。たくさんの技術をもっていた。百の(多くの)姓(かばね)で、なにが悪いか。我が祖父祖母らは百姓であって、「農業に従事するかたがた」なんぞという、得体の知れぬ者どもではない。失敬であろう。

 二代下って従兄となると、さすがに百姓ではない。もと農村で今は市街地となった地域に住み、ひととおりの農作業に通じている市民である。だがどこかに百姓の匂いを残した市民である。

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 贈ってくださるのは、県内の水産品加工業者さんの手になるカマボコだ。練り物の上に味付けした魚を巻いて固めたもので、押し寿司のカマボコ版といったもの。素材により、板付きと板なしとに分れる。
 現代の加工食品であるからには、製造工程に幾多の機械や化学が与っていよう。だいいち防腐加工のうえ真空パックされているのだから。しかし観た眼にも、味わいにも、粗削りで野趣に富んだ、手造り感が横溢している。
 技術を駆使しての手作り感の演出。なるほどこれが現代の「まとも」ということか。あの従兄が選んでくれた品物として、まことにふさわしい。

 これで一杯やるときには、生醤油も練りワサビもいけない。糟が強めのワサビ漬、これに限る。