一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

異例

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 古来云う。明けぬ夜はない。また云う。冬来たりなば春遠からじ。ありがたや、ありがたや。

 一度書いてしまったものを、あまり読み返したりはしない性格だが、ふと変な気を起して、過去幾日分かに眼を通してみたら、あらためてうんざりした。
 老残の妄想と愚痴とを書き連ねる方針で起した日記ではあったが、それにしてもひどい。景気がよろしくない。
 もともと物欲・金銭欲には乏しいほうだ。ボケるなら色惚けに限る。常住さよう念じている。が、修業いたらず、書くものには色気が乏しい。おゝいなる矛盾である。

 時計の用いかたに、いまだ習熟していないのかと恥入る。
 日本人は、およそ三つの時計を持って、場面と都合で使い分けてきた。第一は、おゝかたの近代人が「時」と考えている進歩主義的時間だ。前車の覆るは後車の戒め。昨日より今日、今日より明日は進歩発展してゆくとの、いわば末広がりの時間観念だ。
 なにも近代人の専売特許ではない。古代人にも、中近世人にも、そう考えた人はあった。が、時流を抜いていたから、賢者か、傑物か、変人とされた。

 第二は、中世的また宗教的時間観念。いわゆる末法思想だ。大昔、教祖が悟りを啓いた時代には、功徳があまねく十方世界に行き渡ったものだが、時代を経るにしたがい薄れてきて、今や末期症状。世の乱れ・人の乱れをこのまゝ放置すると、人間は間もなく終ると予感する、いわば先すぼまりの時間観念だ。
 古代末から中世の芸術はもちろん、政治・軍事も、この時間感覚に貫かれて推移せざるをえなかった。

 第三は、進歩でもなければ衰微でもない、循環的時間観念だ。毎年均等に四季が巡る、温帯地帯で農耕を営んだ先祖が培った、やがて季節が変るという弁えである。この冬をなんとかしのげば、春はかならずやって来るとの楽観。
 日本人は我慢・辛抱することを学んだ。オテント様と相談することを学んだ。オテント様に顔向けできぬような生きかたさえしなければ、なんとかなる。かりに父さんが間に合わなくても俺が。だって爺さんが間に合わなかったことを、父さんがやってきたのだから。
 為政者とは無縁に、また文化現象の表層とも一見無縁に、庶民が育んできた、部厚く確かな心性だ。

 日本人は、信仰的な民だ。たゞし宗教的ではない。オテント様は、教祖ではないからだ。この点が、外国人にはなかなか理解されにくいらしい。非常時にも行儀よく行列する日本人や、ゴミを持ち帰る日本人に、外国のかたがたが驚いたり感心してくださっている噂を耳にするが、べつだん日本人が高潔なわけではない。別の面では、情けない国民である。たゞオテント様への信仰が、無意識のうちに役立っているまでのことだ。

 進歩的時間観念であれば、先を争ってでも、得することが善だろう。宗教的時間観念であれば、投げやりに放置したところで、どうってことない問題だろう。が、循環的時間観念にてらせば、誰のためにでもなく、オテント様に顔向けできぬ生きかたはキマリ悪いのである。
 昨今、といってもほんのこゝ数十年、日本の信用が上向いたからといって、日本を利用したり、日本人に成りすましたりする外国人があるという。尋問されると、すぐバレるそうだ。問答のなかで、オテント様信仰のないのが、明白になってしまうそうだ。

 ところが一方では、工芸的手仕事や武道や料理や、さまざまな文化分野が入口となって、並の日本人よりはるかにオテント様が身についている外国人も視かける時代だ。自分は日本人だからと気を抜いていると、大恥をかく時代にもなった。
 私が接する分野でも、自分は日本生れ日本育ちだから、当然自分の日本語には問題ないと、根拠なしに己惚れる文学志望者に、閉口している。

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 やれやれ、春遠からじの噺をしたかったものが、また冬向けの愚痴になった。
 もっとも今日は、オテント様ではなく、西洋の賢人のお祝いだそうで。私もチャッカリ相伴に与るとして。
 ご近所に、知る人ぞ知る名店ベーカリーがある。「食べログ」にクチコミ評判記が並び、電車で買物に見えるお客まである。
 齢のことも血圧のこともカロリー目処のこともあって、日ごろ揚げパン系は一個と自制しているのだが、クリスマス・ケーキの代りということも、そりゃありましょうとも。本日は異例中の異例、カレーパンとアンドーナツ。その代り酒は抜き。