一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

玉子論

f:id:westgoing:20211221180350j:plain


 さしあたってなんの差障りもないけれど、たゞちょいとした、我が心の問題。

 玉子を毎日一個ずつ、摂取することにしている。調理らしいことをするのでなく、目玉焼きか玉子焼きだ。目玉焼きであれば、ウィンナか野菜を軽く炒めて添える。玉子焼きであれば、そのウィンナなり野菜なりを細かく切って先に炒めたところへ、溶いた玉子を流し込んでスクランブルする。俺流オムレツと称んでいる。
 違いといっても、なんのことはない、オムレツには、砂糖ひと匙と塩ひと摘みを入れる点だけだ。

 たゞし食感と申そうか、食べ心地には、そうとうの違いがあると思っている。こんなものでも、やはり別の料理である。
 さて今朝は目玉にするかオムレツにするか、毎日その場で考える。多くは体調と気分次第なのではあるが、いちおうの基準はあって、他の副食類や香の物類に、その日は砂糖や塩気が多いかそれほどでもないかでバランス判断する。で、どちらかに決めてとりかゝる。

 ところで、時に問題が生じるのは、こゝからだ。今朝は目玉と心づもりしたにもかゝわらず、割るときの力加減によってか、黄味の位置によってか、卵黄膜が傷ついて、卵黄の一部が卵白に流れ出してしまっていることがある。
 黄身と白身が混じりあって平たくなった目玉焼きは気に入らない。オムレツにはできるけれども、今朝は砂糖も塩も使うまいと、一度は決断してしまったのである。気に入らない。

 なぜ、こんな破目に陥ったかと考える。殻が脆いのか。卵黄膜が弱いのか。ワンパック(十個入り)179円だったからか。ワンパック195円の玉子だったら、こんなことにはならなかったのか。
 最近の玉子は、おしなべてかつてよりもデリケートになっているのか。養鶏場の現実はどうなのか。時代による変遷はあるのか。
 それとも私の手つきが、がさつになってきているのか。これも老化現象の顕れなのか。

 価格の異なる玉子を買い揃えて、比較実験する必要があるだろうか。そうなると、それぞれ十個パックずつでは買い過ぎで、各六個パックを買うことになる。となれば、一個当りの価格を抑えられなくなるから、そもそもの買物理念が崩れるということにはならぬか。

 問題の前提を吟味する。献立を目玉焼きとオムレツの二択に限定しているから、ジレンマが生じる。砂糖も塩も使わずに、スクランブルする献立を選択肢に加えれば、矛盾は起きない。
 なにかを炒めるか煮るかして、玉子で閉じる場合を考える。が、二三思い浮べてみても、仮に玉子に砂糖・塩を使わずとも、炒めたり煮たりするほうに、より大量の調味料を使う気がする。本末転倒である。

 遡って、冷静に考え直す。さような論理的問題ではなく、玉子の味付けごときにこだわる、私の性格に原因があるのか。
 だが、その日第一回目の食事は、私にとっては日に一度の「ちゃんとメシ」であって、もう一回の「てきとうメシ」とは違う。この一回が私の生命・健康を支えているのだ。もう一回の、たゞ空腹を満たすための食事とは、重要度においておゝいなる懸隔があるのだ。揺るがせにはできぬ。

 だったら、玉子を「ちゃんとメシ」の献立から外すか。それはできない相談だ。肉類を加減して、玉子と魚と大豆で蛋白質を補給するという、基本理念に逆行する。
 だいいち「てきとうメシ」は、時として麺類になったり、パンになったり、酒の肴になったりもする。玉子が合う日ばかりとは限らないのだ。

 命題は振出しに戻る。平べったい目玉焼きを承認するか、それとも方針変更して砂糖・塩を使ってオムレツか。いずれが許容、もしくは忍耐可能か。
 酢の物か、梅干か、なにか他の小鉢で塩分を減らす途を、考察し始めるわけである。

 なぁ、奥村、北岡、藤原。正直一途に、慌てゝ死ぬことなんか、なかったんだ。
 生き延びたからって、この程度のもんだったんだぜ。