一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

BGM

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DONALD BYRD:A NEW PERSPECTIVE

 武内陶子さんの「ごごカフェ」も聴くし、荻上チキさんと南部広美さんの「セッション」も聴く。夜間だと「NHKラジオ深夜便」を聴く。生活不規則につき、毎日欠かさずのリスナーというわけではない。

 年代物のラジカセを、台所に持込んでいる。片方のスピーカーが接触不良につき、左右均等に音を出させるには、レバー操作にちょいとしたコツが必要だ。
 CDも聴く。炊事・食事・洗い物のBGMである。CD棚は別の階だから、往ったり来たりは面倒臭い。目下愛聴中のCD三枚か四枚を、ラジカセ脇に常備して、飽きがきたら入換え戦をする。日常的にリピートするのが一ニ枚。ときどきの気分転換用が一ニ枚、といったところ。

 歴代の目下愛聴中には、変遷がある。飽きるまで繰返すのだから、当然だ。
 ドルフィーコルトレーンはBGMに向かない。聴くとなると、この齢でも、ついつい耳が真剣になって、手が停まりがちになるからだ。マイルスだと、どんなにパワフルな演奏でも、そういうことが少ない。なにが違うのだろうか。判らない。

 デイヴ・ブルーベックはすぐに飽きた。オスカー・ピーターソンはキラキラして、耳に残り過ぎる。ビル・エヴァンスは逆で、空気に溶け過ぎて、なにも残らな過ぎる。それぞれ一時凝ったが、やがて棚へと戻っていった。ピアノはウィントン・ケリーとの付合いが、もっとも長くなった。軽くて、タッチがクリアで、可愛らしくてお洒落だ。もう長いこと戻らず、ラジカセの脇にいる。レイ・ブライアントバド・パウエルもずいぶん長かったが、つい最近、戻っていった。が、この二人には、やがてまた出て来る日がありそうな気がする。

 ウィントン・ケリーとともに長いこと居座っているのは、ギターのウェス・モンゴメリーだ。いつでも乗りが好く、グルーヴ感が心地好い。鍋やフライパンの底を磨くとか、シンク排水溝のゴミ濾しネットを交換するとか、古い食器を久しぶりに取出す必要が生じて、経年変化したくすみを磨き落さねばならぬとか、鬱陶しい作業をするときには欠かせない。

 ときどきの気分転換用のほうは、そんな気分になったいきさつが一回々々異なるわけだから、一貫性などない。保守的であっても完成度の高い音が欲しければカウント・ベイシー楽団。自分だってまんざら捨てたもんではないと慰め、自己肯定したいときにはMJQ。反対に浮ついた軽薄な気分でいたければハービー・マンと、色とりどりだ。
 初心に還って、こういうのがジャズって思ったんだよなぁと、思い出に耽りたければアート・ブレイキーである。

 この二週間ほど、リピートし続けているのは、ドナルド・バード「ア・ニュー・パースペクティヴ」。宗教音楽(ゴスペル)をジャズにしたアルバムだ。
 ドナルド・バードといえば、有名な「フェーゴFuego」を代表作とする、ハードバップのトランぺッターと思われている。黒人的リズム感を炸裂させた、陽気で力強い世界だ。熱い世界でもある。が、この一作はちょいと毛色が違う。

 フロントではドナルド・バードが、明るい音色で陽気に、また曲によってはネットリと、いつものように吹きまくる。が、バックではピアノのハービー・ハンコックが、時には合の手を入れるように、時には主旋律とまったく異なる旋律を、地味にクールに弾き続けている。私の耳には、奇跡的なアンサンブルに聞える。リーダーのドナルド・バードと同じくらい、じつはハービー・ハンコックが仕事しているアルバムなのだ。

 高校生の一時期、この一枚にハマった。ほうぼうのジャズ喫茶でリクエストした。あまり好い顔をされなかった。店の雰囲気に合わないというのである。世はコルトレーン全盛時代(ついでにビートルズ全盛時代)。こんなレコードに夢中な若者など、いるはずもなかった。しかしその後も長く、記憶に残り続ける一枚になった。

 五十五歳でパソコンに触るようになった。六十歳を過ぎてSNSを知る。やがてユーチューブをも。検索してみたら、あった。いつでも自由に、心おきなく、ヘッドホンで聴けるようになった。
 だが台所へは、パソコンを持込まぬことを鉄則としている。スマホは所持したことがない。炊事や片付けのBGMとはできなかった。
 そして歳男、七十二歳。ついにCDを買った。アマゾンで、中古の、最安値をクリックした。ついに、ついに、台所のBGMに、コイツが加わった。
 私一個にとっては、今年の十大ニュースのひとつである。

 十代に聴いた。今、聴いている。あいだの五十年は、いったい何だったのだろうか?
 なにがしかではあったと、思いたい。だが果して、どうだか……。