一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

穴だらけ

f:id:westgoing:20211229020024j:plain


 過剰に几帳面な均衡・公平・平等への執着は、精神疾患紙一重だそうだ。

 一人用の盆に飯茶碗と一汁三菜。好物から箸をつける人、好物を最後の愉しみに取っておく人。いろいろだろう。経験からおのずと形成された、自分流の順序で食事をしているはずだ。
 ところが、右手前の椀に箸をつけたら、次は左前の魚に。左手前の煮物に箸をつけたら、次は右前の酢の物にと、その日の献立に関りなく、厳密な均衡・公平を索めて食事する人たちがあるという。いわゆる「三角食べ」である。
 一皿のうちでも、魚に大根おろしと茹で野菜が添えてあったりすると、均等に順序正しく箸をつけてゆく。最後は、飯茶碗と汁椀と皿と小鉢とに、それぞれひと口もしくはひと箸ずつの食物が残り、それらを順序に沿って口に運ぶことで、滞りなく完食となる。

 精神疾患を患う患者さんがたの、病棟での食事風景だ。均衡・公平への過度の執着は、精神のバランスを乱したくないとする、無意識の防衛本能ででもあろうか。
 好みによる、またその日その時の気分による、偏りやばらつきは、精神的に健康である証拠とも云えそうだ。

 およそ四合見当の米を炊く。一食分を小分けにして冷凍する。が、手の加減か、炊け具合の加減か、ひと釜から何食分採れるかは、毎回同じとは限らない。
 今日は十二食と半分だった。この「半分」が、かねてより私には、厄介な問題であり続けている。今日は粥を半量にしようという気分の日などほとんどなく、一食半に増量しようという気分の日は、なおさらない。まず間違いなく半量の玉は、最後まで残ることになる。

 だったら九個目を握るころに、釜に残る飯を見計らって、心持ち巨きな玉を握って十二個で仕上げるか、逆に心持ち小さく握って、十三個採りすればよろしいわけだが、それがどうにも気に入らないのである。
 各個の握りをなりゆきにして、ちょうどになった場合は、しごく幸せだが、調節して無理やり帳尻合せしたのでは、気持悪いのである。解凍して粥にほどくさいにも、今日のは調節したヤツだと思えば、鍋の粥に対して、なんだか愛情が湧かないような気分になる。

 穏便な解決法としては、半個玉が最後まで残るのは仕方ないとして、次回の炊飯で余りとなった飯と合せて一個分とする手があり、この手で無難に処理できた場合も、確かにあった。
 が、ゴーゴリや、モーパッサンや、カフカの小説にあるように、この世の中の出来事のおゝかたは、思いどおりには運ばない。そんなときに限って、次の回は、なりゆきでちょうどに納まってしまったりする。
 永久凍土のごとき冷凍飯を抱えるわけにはゆかないから、ことこゝに至っては次回の最終玉をわざと二個に分け、うちの一個を前回最終の半個と抱合わせの一個とし、新しい半個玉を残留させることとなる。いつの日か、抱合わせの半個分コミでちょうどになるまで、順送りしてゆく仕儀となる。

 均等三角食べを厳密に順守する精神病棟の患者さんたちの、私は予備軍であろうか。
 ともあれ、年内最後の飯を炊いた。これを食べ了えるのは、令和四年の一月何日かになる。

f:id:westgoing:20211229033605j:plain

 年内最後の、古新聞・紙類・段ボール・古布等のゴミ出し日だ。
 まず冷蔵庫脇の凹みに、溜りに溜った紙箱類。引っぱり出して解体。段ボール類と、ティッシュ箱や菓子箱や珈琲箱など普通の厚紙類とに仕分ける。それぞれを大きさ順に重ね直して、十字紐を掛ける。社会人だったころ、倉庫作業や在庫発送で身につけた、ほどけない括りかた・縛りかた。躰が憶えているとはいっても、指先がめっきり硬化したものか、速度が上らない。
 古新聞はきつく圧し重ねて専用サイズの紙袋に入れ、これも十字紐を掛ける。近年牛乳を買わなくなったので、牛乳パックはないが、ひと回り大きい酒パックが、怠けていたあいだに呆れるほど溜っている。清酒と梅酒の二リットルパックに十字紐を掛けると、すっくと立つ厚みとなった。壮観と感じ入ってよいものか、恥入るべきことなのか。

 これ以上に着古してしまっては、布繊維に対して申しわけが立たぬほどになった衣類と、擦切れるまで働いてくれた布巾・手拭い・タオル類、それにネズミ捕りホイホイを私が踏んづけてしまって処分するほかなくなった靴下などを寄集めると、四十五リットル袋一杯となった。「古布」とサインペンで大書。
 古布ひと袋と、それぞれ十字縛りした古新聞袋・段ボール・厚紙・酒パックを、決りの回収場所へ運ぶ。書けばそれだけのことなれど、かつての軽作業は、たゞ今の重労働である。

 気分だけは、おゝいに働いたつもり。が、出せたのは台所の紙類のみ、居間のパソコン周りと、玄関上り框周辺には、厚紙・段ボール類がもうひと山、手着かずにある。
 老人の無茶労働は感心しない。来年出しとする。めったに来客などあるまいが、ふいのことでもあれば、人目につくのは、むしろこっちなのに。順番間違えか。
 独り住まいとは、なにごとにも行届かず、しょせんは気分だけのものだ。

 ぴったりしめた穴だらけの障子である  尾崎放哉