一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

なんとも

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小林勇『人はさびしき』(文芸春秋、1973)

 生前ゆかりあって親しく交わった人、仕事上での恩人など、逝きし人たちとの思い出を回想した、人物論集。著者は、元岩波書店会長。創業社長岩波茂雄の薫陶を受け、やがて娘婿となった人。それよりなにより、岩波新書を創った人。代表取締役をも務めた。
 出版人だが、画家でもあり、随筆家でもあった。

 岩波書店にあって、仕事で担当した縁から公私にわたって親しくした人らが並ぶとなると、その顔ぶれが凄い。長谷川如是閑安部能成斎藤茂吉、内山完造と魯迅三木清志賀直哉ほか。が、そうした傑物著者たちの件については、今は措く。
 気楽な読物雑誌の企画で、生前の池島信平と対談(放談?)した記事を、巻末に再録してある。菊池寛佐佐木茂索のあとを継いだ、文藝春秋三代目社長だ。
 ともに血気盛んな編集者時代、大酒豪のご両所は、とある文壇の祝賀パーティーで知合い、たちまち意気投合。互いを下の名で呼び合う間柄となり、以後池島の他界まで酒友だったという。

 小林が初めて酒を口にしたのは十三歳のときで、こんな美味いものを大人だけが独占しているのはズルイと思ったそうだ。池島は文藝春秋に入社してから、先輩の導きで酒を覚えた。
 小林は口に合う料理を肴にじっくり飲みたがり、池島は食事をそこそこに済ませて、バーへと河岸を換えたがった。
 自宅で夕食を摂る機会などほとんどない点は、ご両所共通だが、小林は家庭料理を大切と考え、休日があればみずから魚を仕入れにゆき、厨房に立った。池島は「男子たるもの包丁を握らず」を貫いた。
 稀に人並みの時間に帰宅できる日があれば、小林は「今日は家で夕飯を食う」と夫人に電話した。池島は自分の夕食などないのが当り前だから、電話などしなかった。

 「今夜は夕飯いらないと電話するのが普通じゃねえのか」と社員たちは小林を嗤った。どこかお悪いんですかと、心配してくれる者もあった。それどころか横須賀線の車掌までが「今日はなにかおありですか」と訊ねてきた。

 小林は鼻っ柱が強く、云いたいことは率直に云う。若き日には酔っぱらってしばしば喧嘩した。お茶目でもあった。諏訪湖畔の旅館で夕食にマグロの刺身が出たことがあった。
 「へぇ、マグロもいるのか、さすが諏訪湖って広いんだなぁ」
 仲居頭が血相変えて、しどろもどろに申し開きした。
 いっぽう池島は、一度とて喧嘩をしたことがなかった。

 この対談では触れていないが、池島の銀座バー企画は出版界では有名だった。池島が馴染の店で飲んでいると、若手中堅の作家たちが、どこからともなく集って来る。池島のほうでも、今日あたりこの時間には、どこそこの酒場で、誰が飲んでいると把握していて、出かけていっては、ほぅらいたァとなった。
 どのバーでも、池島の席では談論風発。笑いが途切れることがなかった。

 「先日池島さん、海軍出身作家たちの戦友会があったんですが、この会には決り事がありましてね。先輩後輩関係なし。階級の低い者ほど上座に座るんです。元二等水兵が床柱を背負い、元士官だの軍医だのは廊下に近い下座に座ることになってます」
 「面白そうな噺だねえ。君ぃ、それ六枚半っ」
 耳寄りな噺、奇妙な話題を聴くと、そのネタを文章にすれば原稿用紙なん枚相当と即座に見当がつき、その場で発注された。話題は翌月の『文藝春秋』随筆欄を飾った。

 いずれ劣らぬ豪快な編集者たちだが、縁の下の力持ちたる点には相違がない。傑物として名を成し、世に知られるのは、飽くまでも著者たちだ。しかし縁の下から視上げなければ、見えるはずもなかった人間模様もある。
 かつて身近にしかと視届けた、今は亡き豪傑や碩学や才人たちを語り了えた小林勇は、ひとこと云う。人とは、なんとも寂しいものだ、と。