一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

ねえんだ

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 芯を焼く、と教わった噺。

 我が常用の熱燗用酒器。常用は気分により、ふとした記憶の蘇りにより、時おり変更されるが、こゝ一年あまりは、これを使っている。

 三十歳代だったか、ふと瓶型の徳利に嫌気がさし、鶴首型の徳利をいくつか持ったことがある。おゝかたは寿命と申すべきか割れ去ったが、ごく頑丈な拵えのいくつかが、今も生きながらえている。
 これは鶴首というほど長首ではないが、そうした偏愛時の名残である。頑丈とは申しがたい造りなのに、なぜか割れずに残った。この型の徳利は、パカリと割れることはめったにないけれども、注ぎ口の先が欠けるのである。平均すれば、瓶型の徳利よりも欠けやすい。

 ご覧のとおり、相馬焼である。灰緑釉を薄く掛けた上に、相馬のトレードマークと申すべき馬が、鉄で描いてある。意匠としては、平凡なものだ。
 注ぎ口を保護する意図か、先端だけ、銅だろうか、緑釉がわずかに厚く掛けられている。厚く掛ったぶんだけ、そこには貫入が入る。長年使ううちに、貫入は眼に見えて鮮明になってきた。
 普通につけて、一合三勺といったころか。軽く、品よく仕上げようとてか、全体を薄手に造ってあるので、燗が冷めやすい。最初のひと口が熱ければ、あとはこだわらぬ私にはそれで結構だが、同じ温度で飲み続けたい御仁には、不向きだ。

 杯は、現代の陶芸作家、土屋芳樹さんの作品。
 キッチンドランカーの私は、しばしば立飲みである。眼と膳の表面とに距離がある。足つきの杯は、注ぐにもにも飲むにも、具合がよろしい。

 土屋さんとは同齢で、ニ十歳代の後半から三十歳代へかけて、毎週のように酒場をご一緒した仲だ。郷里の軽井沢に窯をもたれ、普段は東京の、文化女子大学生活造形学科というところで、陶芸の先生をしておられた。
 陶芸家と親しくしていると、とても好いことがある。意匠の工夫、釉薬の研究、窯の実験、さまざまの試し焼をされる。作品にも商品にもしない器が、たくさん焼きあがる。こちらが眼を覆いたくなるほど盛大に、割る。
 「あっ、それ、好さそうじゃないの。割らなくても……」
 「駄目だね」
 「じゃあ、俺にくれよ。自分用にして、けっして外へは出さないから」
 という次第である。

 住いも近かったのに、私が引越して離れ、あまつさえ退職フリーから転職へと、目まぐるしく身辺変化したために、会う機会がなくなってしまった。加えて双方とも、年賀状だの暑中見舞いだのといった、虚礼に類することを嫌う性格だったので、次第に疎遠になっていった。
 おかげさまで齢も齢、定年により素浪人となった今、再会してみたい旧友のお一人である。

 土屋さんはよく、店頭の陶磁商品を改めるとき、品物を耳もとへ近づけて、人差し指の爪で、軽く弾いては音を確かめた。なにを聴いているのだろうかと思って、私もやってみようとすると、
 「あっ、やめといたほうがいゝ」
 と、制止された。加減とコツがあるらしい。素人が真似すると、商品に肉眼では見えぬほどのヒビを入れてしまうらしい。
 なるほど。ヒビの初めは、眼には見えないのか。私はひとつ学んだ。

 これは焼けてる、焼けてない、焼き過ぎて釉が脱げた。彼はぶっきらぼうに云う。釉が脱げてるのは素人の眼にも見えるが、焼けてる焼けてないはとなると、はて、私には見えない。
 「割ってみれば判る」
 いや、それは無理でしょう。
 あるとき、自分の不本意作を割る場面を見せてくれた。割り破片の断面をつぶさに観察すると、厚みのまんなかに、かすかな粘土色が残っているものがある。注意して観なければ、視過す。これか……。
 「多岐さん、陶芸って、なんだと思う? 土を焼くことなんだよね。アマチュアの皆さんの陶芸教室では、釉薬が焼けて色さえ出ていれば、ご満足いたゞけるけれども」
 土を焼く、か。いずこも同じってことか。私には得心がいった。

 その後、学生諸君に、長年申し続けてきた。
 ――あのさァ、文学って、なんだと思う? 読者に言葉を読んでいたゞくもんなんだよね。意味の伝達で終りじゃねえんだ。
 小説って、なんだと思う? 人間像を描き出すもんなんだよね。物語の辻褄が合ってりゃ好いってもんじゃねえんだな。