一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

挫折

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 ほゞ三か月ぶりに、カボチャを炊いた。二十年以上やってきた、手慣れた手順で。仕上りに、今さらどうのこうのはないが、気分は微妙だ。

 カボチャを、揚げびたしに使いたかったのである。手の内に入ったとはとうてい申しがたい献立だから、おゝいに実験意欲に燃えてもいた。が、今回は外した。俎板に置いたカボチャと、しばし睨めっこした揚句に、断念のやむなきに至った。
 厚みを均等にするには、どう切ったものだろうか。天ぷら職人が切るカボチャのようには、どうしたら切れるのだろうか。たんなる腕前・経験の問題だろうか。なにかコツがあるのではないか。素人でも真似できる、工夫があるのではないか。

 考えはついに閃かなかった。勇気ある撤退である。天龍寺流と勝手に称んでいる、もっとも手の掛らぬ、いつもの炊きかたにした。軽い挫折感がある。
 均等の厚みに切れていないカボチャでも、低温でゆっくり素揚げするのだから、熱は通る。味にも食感にも問題はない。前回たしかめ済みだ。が、厚み均等。この課題を克服できなければ、より高度な段階へは進めない。ある程度の水準にまで達してから、揚げびたしをひとまず修了、ということにしたいのだ。

 たんなる腕前・経験の差だとすれば、回数多く試みるべきだ。不格好は気にせず、自己流で進もうかとも、当然考えた。いつもなら、そうしただろう。が、そこへ別の実験案が閃いてしまった。ニンジンの件である。
 揚げびたしのニンジンには、佳き味わいが二種類あると、解ってきた。出汁を十分に吸って、さほど歯で噛む必要もないくらいに軟らかく仕上ったニンジンと、少々歯応えを残して、独特の臭みにも似た野趣の味がするニンジンとだ。素揚げ段階で、水分を出し切るまで深く揚げるか、生の気配をいくらか残した状態で油から上げるかの違いによることは明らかだ。

 色も形も異なる。柔らかニンジンは、水分を出し尽して、焦げる直前まで油のなかにいるから、どうしても色は黒ずむ。表面はしなびた感じとなり、輪郭も曖昧になる。いっぽう半生ニンジンは、色も表面も輪郭も、くっきり鮮明だ。
 どちらも、揚げびたしにしましたと云われゝば、あゝそうですかと応えられる味にはなる。が、この問題を、たまたま今回はこの程度の出来となりましたで、放っておいてよいものだろうか。
 この問題に、自分なりのケリをつけずにいて、よろしいものだろうか。

 茶道にはまったく興味ないが、その道のかたから伺ったことがある。茶を立てるに程よい湯の熱さというものがある。炉に炭をついで、釜の湯の温度が上ってくる。松林を風が渡るようにシャワシャワと釜が鳴る頃合いに、柄杓を突き入れて湯を取るそうだ。釜がもっと大きな音をたてゝいる間は、湯の温度が高過ぎるのだとか。
 ついだ炭が盛りを過ぎて火力が弱ってくる。湯の温度も下りはじめる。ふたたびシャワシャワの頃合いとなる。それも茶の立て時という。
 さきの松風、あとの松風、とおっしゃった。「さき」と「あと」とでは、茶の味も異なるそうだ。興味を惹かれはした。所望すれば、ご馳走してくださるだろうほどに、親しい間柄ではあったが、申し出なかった。私の舌では、どうせ味わい分けられまいとの、予感があったからだ。

 八百屋のニンジンは、その日に入荷したニンジンの形(大きさ)によって、袋に三本詰めだったり四本詰めだったりする。今回は三本詰めだった。うちの二本を揚げびたしに使うのが、他の野菜とのバランスとして適当と、私は見当をつけていた。
 が、考えが変った。先のニンジン・後のニンジン。揚げ分けを試みるとすれば、三本すべてを使ってしまうくらいでなければ、結果がはっきりするまい。
 となると、漬け汁や出汁の加減はどうなるだろうか。それよりなにより、いつも用いているバットでは、サイズが足りるまい。大きなバットが必要になる。そんなものは、我が台所にはない。代りとして流用できるものが、なにかないか。日ごろから、一人用台所として、無駄に大きな器や調理器具は整理処分してきている。間に合うものなど思いつかない。

 以上の経緯が、背景にあった。俎板のカボチャと睨めっこする私の耳に、悪魔の声が聞えたわけだ。このさい、カボチャを外してしまえ。厚み不均等の件は先延ばしにしてしまえ。さすれば、大バットの代りを探す必要はなくなるぞよ。ニンジンを相当増やしても、間に合うぞよ。
 かようにしてカボチャは、よくも飽きずにというほど、長年炊かれなれた火加減と味つけで、本日食卓に上る次第となったのである。