一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

つぐない

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 小学校の給食で、どうしても口に入れられなかったのは、ヒジキ煮だった。ところが現在までにもっとも回数多く作った我が保存料理は、ヒジキ煮だろう。

 強い子に育つには、給食はひと口たりとも残してはいけないと、教えられた。径二十センチほどのアルマイトの丸皿は、直径でも測るかのように真中横一線が山となって、全体が二分されている。片方にコッペパンが一個。もう片方に、その日のおかずが盛られる。ほかに径十センチほどの、これもアルマイトの椀が付いて、ミルクが注がれた。
 今日では脱脂粉乳と称ばれて、無味無栄養の代表のごとくに云われるが、それはミルクだと教わった。本物のミルクを口にしたことのある児童など、クラスに一人もなかったから、不味いといって飲み残す児童もあったが、大半の児童は、ミルクミルクといって、毎日残さず飲み干した。

 児童に最高人気のおかずは、鯨肉の竜田揚げだった。玉葱が煮とろけて、じゃが芋とニンジンだけがごろごろしたカレー粉汁も出た。児童たちは、カレーだといって、喜んで食べた。むろん米など出たことがない。コッペを千切って、汁に浸して食べた。
 月に一度くらい、ヒジキ煮が出た。ヒジキ以外の具材はほとんど見えぬ、漆黒の煮物だった。私はこれだけが苦手だった。母のレパートリーに入っていなかったので、生れて初めて経験する、醜怪な味だった。
 けれども常日ごろ、ひと口たりとも残すではないと教えられている。バレれば叱られる。君が食べ終るまで給食の時間は終らない、とまで脅かされた。

 コッペパンの腹を指で裂き、見つからぬよう手早く、ヒジキ煮をスプーンでパンに挟んだ。各人の体調・腹具合に合せて、パンだけは給食袋に詰めて持帰ってよいことになっていたのだ。
 そんな日の午後は、腹が空いてほとほと困った。商家の子は、一日五円とか十円とか、小遣いを持たされて、自分の裁量で金を使うしつけを受けているようだったが、我が家には小遣いの習慣がなかった。必要な品が発生したときに、理由と値段とを母に申し出て、認められゝば必要金額を与えられる方式だった。買い食いができる級友が、羨ましくてたまらなかった。
 駄菓子屋の前も、パン屋の前も、視ないようにして素通りするしかない。紙芝居も、塀に登って遠くからしか観られない。とにかく腹が空いた。

 家へ帰るとすぐさま、母に見つからぬように、コッペに挟んだヒジキを、スプーンでこそげ落すように捨てた。パンだけは食いたかったが、ヒジキの汁が十分に染みてしまって、嫌な味と匂いがパン全体にゆきわたり、食えたもんじゃなかった。
 夕飯までの時間が、長かった。

 それから十五年も経ったろうか。小料理屋でヒジキ煮と再会した。取引先の課長さんのお供をしていた。幇間営業である。並んで腰かけ、おしぼりを使っていると、ハイ突出しといってカウンターの向うから小鉢が二つ出てきた。切干し大根とヒジキ煮だった。先方は黙って、切り干し大根を自分の前へ引取った。
 この人の気性は先刻呑込んでいる。けっして自分から注文したり、希望を云ってはならない。
 「君、どうする? なんでもお好きなものを」
 たとえそう云われても、希望を口にしてはならない。
 「さぁて、こういう所を知りませんので、課長、お任せいたします」
 と云わねばならない。

 清水の舞台から、は大袈裟だけれども、死にゃあせんわいくらいの気持で、箸を付けた。しごく美味かった。
 もっともいけ好かぬ意味で、もっとも低俗な用法で云われる「大人になった証」として、私はヒジキ煮の味を知ったのだった。

 さらに二十五年。両親の看病と在宅介護のために、台所に立つようになった。あるとき、ふとヒジキ煮を想い出して、自分で作ってみた。なにを作るにも栄養バランスを主眼とせねばならぬ立場。居酒屋のものや市販のものより、具材を多くした。
 出汁とヒジキの味で、具材を炊くという感じ。ヒジキは調味料のひとつと考えるに近い。具材もあれこれ入換えてみた。ダイコンもゴボウも使ってみた。油揚げもさつま揚げも試した。糸こんにゃくや白滝を刻み込んだ時期もある。海藻二種取合せはどうかと、昆布も若布も試した。
 一度でこりごり、即却下もあった。しばらくこれで行ってみよう、もあった。が、飽きがこない平均的取合せとして、大豆・ニンジン・細竹輪のトリオに定まった。四年ほど掛ったのではなかったか。

 今ではもう、実験はしない。絶品の味は出せずとも、自分一人の食事を不味くしなければ、用が足りる。そして食物繊維が安定して摂れる。材料費も安い。
 三年前に腸捻転で入院騒ぎを起すまで、便秘というものをしたことがなかった。イワシの頭のごとき思い込みかもしれぬが、昆布と若布を毎日使い、四季をとおしてヒジキを炊いてきたご利益と、自分では思っている。

 敗戦後教育の貧しいヤリクリのなかで、栄養士さんもお骨折りだったことだろう。児童たちに栄養を途切れさせぬよう、しかも予算内で仕上げねばならぬ。鯨肉を用意し、野菜カレーを出す一方で、ヒジキ煮も出して帳尻を合せねばならなかったことだろう。
 私はそのおゝかたを捨て、エキスはコッペに吸わせて、これも捨てた。その償いに今、人一倍ヒジキ煮を炊くのだろうと揶揄されゝば、否定はしない。