一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

苦行

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 ほゞ月に一度の、収録日だ。ひとつの噺を四ブロックに分けて、インターバルを空けながら喋る。台本はない。事前打合せもない。ぶっつけの一発録りである。
 喋りそこないや脱落は、数知れない。事実誤認があれば、むろん訂正するが、表現の不正確・不十分は無視する。思えば、ずいぶんわがまま勝手な収録だ。
 それでも、原稿どおりに語る堅苦しさから逃れて、気まゝなライブ感を優先したほうがマシだと考えている。

 私は喋り済ませて、今夜あたりは一杯、なんぞと考えていればよろしいのだが、ディレクターのko-h.さんは、これからがお手間作業だ。老人のヨタヨタ噺や息切れ噺を、視聴者のお耳に入りやすいように、編集しなければならない。一回収録分を、一本十五分か、せいぜい二十分以内の音声テープ四本にまとめねばならない。背景動画を創らねばならない。BGMをマッチさせねばならない。字幕も創らねばならない。
 一回収録分から動画四本を仕上げて、ユーチューブに上げるまでには、私の声を、二十回から三十回は聴かねばならぬそうだ。さぞや難行苦行だろう。

 井原西鶴は三十代なかばで妻を亡くし、頭を丸めてはみたものの、鬱勃たる闘志やみがたく、才にまかせて乱暴に文学したようだ。衆人環視の神社興行で、一昼夜に千六百句を詠んで見せた。
 刺激されたのか、とある俳諧師、千八百吟を成し遂げて、どうだいと見栄を切ってみせた。世に野心家は絶えぬもので、また別の俳諧師、一昼夜三千吟の大技をやって見せた。が、命知らずと申そうか、相手が悪過ぎた。西鶴の桁外れな才能の火に油を注いでしまったのだ。

 西鶴は一昼夜四千句独吟をやって見せ、刊行したあと、こんなゲームを続けていくことには意味がないと、心身整えての大興行。あろうことか一昼夜二万三千五百句独吟という、とんでもない記録を打立てゝしまった。
 これを機に、矢数俳諧連句形式で詠んだ句数を競うゲーム)の流行は、パタリとやんでしまったという。

 乗除すれば、食事も用足しもなしに二十四時間詠み続けたとして、三~四秒に一句。念仏を唱えるがごとく、ほとんどうわ言のごとくに、思いつくまゝ口をつくまゝ声に出していったのだろう。
 この速度では、書記係とて記録できまい。一句詠むごとに、紙上に棒線を一本また一本と書き入れていったという。たゞし、発句だけは残っている。「俳諧の息の根とめむ大矢数」こんなくだらねえゲーム、俺が終りにしてやらぁ。

 誰かに記憶されて残った、ほんのいくつかの部分があって、そのひとつ「なんぞ亭主おもろきことはござらぬか」「きのふ(昨日)たはけ(戯け)が死んだと申す」台詞問答であり、会話である。すでにして散文である。
 興行の一年あまり前、最初の小説『好色一代男』を刊行したばかり。つまり西鶴という男は、俳諧(詩)から散文(小説)へと移行または転身などしたのではなく、詩を内側から食い破って、小説が自然に出て来てしまった男だ。とんでもない才能である。

 さような次第で、二万三千五百は残っていないが、それ以前のものは残っている。
 ところで私は、西鶴研究の泰斗とお称びするほかなき暉峻康隆教授のご講義を受けたわけだが、西鶴全集の完璧を期しておられた教授はあるとき、笑みを浮べながらおっしゃった。
 「もう一年近く、註を付けているんだ。諸君、西鶴が一昼夜で詠んじまったモンにですよぉ」
 学生一同、大爆笑した。師の笑みも愉快そうで、けっして苦笑ではなかった。