一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

歴史

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トゥキュディデス(b.c.460頃‐b.c.395)

 アテネに疫病大流行の年があってね。人ばかりか、犬も猫も死んだ。カモメも飛ばなくなっちまった。ひどいもんだった。運良く、生残ったがね。
 そん時、世のありさまを記録したのさ。想定外の事態に人はうろたえるばかりで、呆れるほどなんにもできゃあしねえ。せめてなりゆきを記録しておけば、次の一大事のときには、そのさき人と世間ってもんはどう動いてゆくか、見当がつくってもんさ。

 それで思ったんだ。スパルタとの戦争は、数年前に始まってた。これも記録しておけば、将来かならず役に立つってね。だから、戦争ってなんだ、その揚句に人はどうなる。将来の参考にするってのが、一番の眼目さ。容易には片づかねえ戦争だとは、予感できたからね。

 スパルタは地味な国さ。旧い国で、それなりに落着いてる。農業収益をヤリクリして、ぜいたくせずにその範囲で生きてゆこうとしてた。耕地を分捕りにやって来る外敵を追っぱらわなきゃならねえから、防衛軍の訓練も真剣だった。強くはあったが、覇権国家じゃねえんだ。
 そこへゆくとアテネは、どこを掘っても大理石ばかり。農業なんかできゃあしねえ。こんな土地を分捕りに来る奴なんてあるもんかい。貿易商と海賊の溜り場みてえな国さ。ところがペルシアとの戦争んときデロス同盟ができたし、船も操船技術も格段に良くなったしで、エーゲ海の島々との貿易がえらく栄えちまった。派手になったねえ、アテネは。たいした鼻息さ。
 急成長して、横暴にもなってたアテネに、周辺国は当然ながら脅威を感じた。とはいえ伝統あっても力がない国ぐにだ。一国じゃあどうにもならねえ。スパルタを中心に寄り集まるしかなかったのさ。デロス同盟vs.ペロポネソス同盟って構図ができちまったわけよ。

 ヘロドトス? あゝ知ってたよ。アテネでも朗読会があったからね。涙がでるほど感動した。参考にもしたよ。敵も味方も、双方を調べるって態度ね。あそこが肝さ。
 たとえばさ。もし遠い将来、アテネ人もスパルタ人もいなくなって、遺跡だけを観る人があったら、この両国が本当に戦争したのかって、訝しむことだろう。神殿も劇場も、市場も集会場も、規模や造作において月とスッポンだ。けどね、アテネは大きく羽ばたいた強い国だったが、スパルタはカチンと固まった強い国だった。遺跡の規模だけじゃ判らねえ。こゝんところは、ちゃあんと記録しておかねえとな。

 たゞしあの人とはやり口が違う。ヘロドトスは、あんなに栄えた大国ペルシアが、なんでまた地味豊かでもなく財宝も持ってないギリシアなんぞに、大軍で押しかけたかと、そもそもの淵源を訊ねて、歩きに歩いた。調べれば調べるほど、それ以前のいきさつが出てきちまって、つまり世界はひとつながりだと悟っちまった。だから世界全体を調べることになったんだ。
 こっちはそんなことに興味ねえや。起きちまった戦争を克明に記録して残すことが、将来かならず役に立つ日が来るって、未来志向の企てだもの。

 たぶんあの人は、この世のすべては、かけがえのない一回限りのことと、思ってたんじゃねえかな。だから耳寄りな噺、信じがたいほど面白い噺があると、戦争原因という本線から寄道・脱線してでも、細大漏らさず記録した。すべて実在した、かけがえのない人間事象だというわけだ。
 こっちは出発点が違う。この世の出来事はすべからく、どうせまたいつか繰返す。そん時の参考になるように、本質をえぐり出しておこうてえんだ。枝葉の寄道なんぞに興味ねえや。珍しい噺で読者を面白がらせようとの魂胆も、ねえわけじゃねえが、あと回しさ。
 だってさ、先の読めねえ災厄に直面するのと、かつて似た場面で人間はこう振舞って、こういう結果になったと判っているのとじゃあ、ずいぶん心持ちが違うことだろうさ。

 そのためになにを苦心したかって? 憶測・風聞・願望を排して、事実のみっていう点じゃあ、あの人と同じさ。たゞこっちは、枝葉を払って、飽くまでも本線を堅持した。しかも筆者の私見が事実を曇らせねえように、当事者の証言や停戦使者の演説を、そのまゝ再現した。だから全体が、実在した登場人物たちの演説集のようだろ?
 あっちが物語なら、こっちはドキュメンタリーさ。

 けどこゝだけの噺、じつを云やあ私見を述べてねえわけじゃねえんだ。登場する実在人物の証言や演説のなかに、溶け込ませてある。造っちゃいねえよ。断じて嘘は書いてねえんだ。たゞ発言順序とか、局面の設定なんぞに、ちょいとアクセントをつけてある。べつに隠し立てはしてねえから、ご興味おありのおかたは、見破ってごらんになるがいゝや。ま、これもお愉しみってやつかね。
 そうさなあ。これからギリシアへお越しのおかた向けには、こう申しておきやしょうか。同じく歴史といっても、ヘロドトス先輩は過去の「全体」、このトゥキュディデスは未来の「本質」ってね。