お土産に、干いもをいたゞいた。何十年ぶりかで口にした。記憶していたよりはるかに甘く、はるかに軟らかく、美味い。
サツマイモを口にする機会はめったにない。好物なのにもかゝわらずだ。理由はない。しょせんは一人家族の食卓。用途の多彩さと値段から、つね日ごろジャガイモにばかり手を伸ばしているだけのことだ。
品種改良が進んで、もはやサツマイモは野菜というより果物だという宣伝コピーを眼にしたこともある。包丁を入れると、断面に蜜が見えるような、甘く軟らかい高級品もあるそうだ。
いたゞいた商品も、そういうイモを使ったのだろうか。商品名「干いも」とあるが、私の記憶にあるのは「乾燥いも」だ。食品は絶えず進歩していて、私が置いてゆかれているということか。
子ども時分もっとも親しんだのは、乾燥いもよりは石焼いもだ。鍵つきのフックで大壺の内側に吊るす「壺焼いも」は、この町には見当らなかった。冷える季節になると石焼いも屋さんが、リヤカーに角型の鉄釜を据えつけた移動車で、売りに来た。お約束のように、角型提灯を点していた。
「石や~きいも~、オイモッ」
思いきり長く、のどかそうに伸ばしておいて、末尾にうって変った早口で「オイモッ」と、慌てたようにつけ加えるのが、売り声の特色だった。ハンドスピーカーというのだろうか、手持ちのラッパ型拡声器を使っていた。
さぞや肌を刺す寒さだろうと想像される街路から、屋内の耳に届く、もの悲しさを含んだユーモアだった。その声が、しだいに近づいてくると、急に空腹をおぼえたものだ。
「あの丸い小さな石は、母さん、どこで売ってるんだろう?」
建設工事現場に積まれている砂利は、角が立っていて、芋には向きそうにない。道や原っぱで拾っていたのでは、とてもじゃないが量的に間に合わない。
「なんでまた、そんな」
「八百屋さんで買ったイモを家で焼けば、いくらでも食べられるじゃないか」
「素人にそんなこと。たゞの石じゃないんだ。何度も焼き馴らして、使えるようになるんだろ、きっと」
「馴らせばいゝじゃないか。ぼくがやるよ」
「あれは売ってる石じゃない。石屋さんが、それ専用に採って来るんだ、きっと」
「どっから?」
「そりゃあ、どこか遠くの浜辺だろうさ」
「ふーん、どこかなぁ。焼いも屋さんは、知ってるだろうなぁ」
「お前ねぇ、石焼いも屋さんに、そんなこと訊くんじゃないよ。いゝかい、絶対に訊いたりしちゃあ、いけないよ」
この子ならやりかねないと、母は危険を察知したのだろう。いく度も念を押した。じつは、訊く気になっていたところだった。
「なんでさ」
「どんなご商売にもね、かならずコツや秘訣があるの。赤の他人がお訊ねしてはいけないことが、あるのよっ。そんなことばっか云ってると、大人になって、馬鹿になるよっ」
「ふ~ん……」
「石や~きいも~、オイモッ」
会社員時分も、売り声は同じだった。たゞしリヤカーは軽トラックに替っていた。手持ちのラッパ型拡声器は消えていた。運転席の頭にスピーカーが設置されていて、録音テープの売り声が、リピートされていた。
そういやあん時、とうとう石の仕入れについちゃあ、訊かず仕舞いだったなぁなどと、ふいに思い出したこともあった。
この齢になって考えてみると、別の意味で、やっぱり訊いておくべきだったんじゃないかという気が、少々する。