一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

女優の指

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『乱』(黒澤明監督、日仏合作、1985)

 お若い時分の原田美枝子さんは、体当り演技もヌード場面も辞さぬ、押出しの強い女優さんに見えた。事実、仕事に向けた想いの深さには、尋常でなく凄まじいものがあったろう。立派な監督や佳い企画とも、次つぎ出逢われたのだったろう。

 時を経て気づいてみると、演技派女優さんだなぁと、感じさせるようになられた。転機がどこかなど、素人には判らない。転機などなしに、私生活と歩調を合せて自然になだらかに、変貌されたのか。お仕事が途切れたことなどなかったかのように、一般には思われていようが、出産や育児のご経験を重ねられた三児の母親である。
 さらに時を経て、短い場面にさりげなく存在感を残す、女性の性格俳優さんと、見えるようになられた。

 南果歩さんと共演の舞台があった。南さんの評判が、たいへんに高かった。あの澄んだ声と独特な発声、それに印象的な顔立ちで、客席へ強烈に刺さった。まぁなんと申しましょうか、大好きな女優さんだ。
 かといって原田さんが後れをとったわけではない。芸風が異なるのだ。南さんはおこなう芸で、原田さんはそこに居る芸だ。攻める芸と受ける芸と申すも可。投手と捕手と申すも可である。

 たしかに、若き日はと申せば、たぎるもの露わな熱血女優だった。だから年月を経ても、企画が、また演出が、原田さんに熱演・力演を要求する場合も、当然ながら生じる。黒澤明『乱』での魔性の毒婦「楓の方」がまさしくそれだった。
 作品はシェイクスピアリア王』の翻案だが、楓の方だけは、同じくシェイクスピアでもマクベス夫人を想い起させる、背筋も凍るがごとき美貌のミセスである。この場面は原田さんに任せた、というような、ソロ舞台さながらの熱演場面が当時評判となった。渾身の熱演だった。それだけに、空回りとは申さぬがそこだけ浮出してしまう憾みなきにしもあらずだった。

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『雨あがる』(小泉堯史監督、東宝、2000)

 そこへゆくと、生前の黒澤がシナリオまで用意して温めていた企画を、御大亡きあと旧黒沢組のかたがたが力を結集して創りあげた『雨あがる』はお見事だった。同題の原作時代小説は山本周五郎の人情もので、主役の浪人剣客夫妻は寺尾聡と宮崎美子
 この原作は以前に一度、『道場破り』(松竹、1964)の題で映画化された。主演は長門勇岩下志麻長門勇にとって最初の主演作品だ。飄々としてとぼけた味わいが作品に真向きで、しかも殺陣の上手な芸人さんということで、抜擢されたのだった。
 ちなみに『道場破り』の脚本は小國英雄。『生きる』『七人の侍』を皮切りに、黒澤作品の多くにおける共同脚本家である。

 長雨で川は増水濁流。渡るにすべなき行商人・旅芸人・遊行僧・出奔者ほか貧しき旅人たちは、粗末な木賃宿に虚しくトグロを巻いて待つしかない。そこを定宿としている夜鷹が一人。原田美枝子さんである。
 画面中央で声を一杯に張る場面は一か所しかない。あとは引け目を感じての小声の台詞か、台詞なしの動作だけか、画面の端ないし隅っこに、そっと居る演技である。それで十分に存在感がある。飲めや唄えやで、画面一杯に群像が躍動する場面でも、アッ、今原田はあそこだと、観客はつねに視界の隅で彼女を意識せずにはいられない。

 心理で申せば、怒り狂う場面と、悔し涙にくれる場面と、寂しく苦笑する場面と、照れ隠しに微笑む場面とがある。だが原田さんは作中で、一滴の涙も、一瞬の微笑みも見せない。言葉を見つけかねているような、呆気に取られているような表情と素振りで押し通したまゝ、いずれの心理をも表現してしまった。驚くべきことだ。
 おこなう演技ではなく、そこに居る演技である。

 ところで、足止めを食らってとげとげしい空気が充満していた木賃宿が、主人公の心遣いによって、つかの間の宴会場に変じる。寺尾聡さんから勧められて、原田さんが椀の肴に手を伸ばす。箸を取ってからおよそ十三秒、口へ運ぶのはせいぜい四秒の場面。原田さんの箸使いがおかしい。普通はありえないほど下手糞だ。
 女優の私生活上の癖などであるはずかない。これほどの女優がしたことだ。たまたまなどということはありえない。演出指示か、原田さんご自身の工夫か、いずれかだろう。

 この時代、下層庶民はどんな箸を使っていたろうか。丸箸・塗り箸があったとは思えない。小枝か削いだまゝの竹か。それとも竹を削ってでもいたろうか。公家や富裕武士ではなく、最下層の民草がだ。
 椀の肴は煮物と見えるが、まだイモ類が簡単に食えるようになる前だろう。豆か、雑穀か、それとも草の根か蔓か葉だろうか。米も現代とは大違いだろう。だとすれば、庶民はどのように箸を使っていたものだろうか。

 そんな些末事はどうだって、とおっしゃる向きとは、こゝでお暇つかまつります。創る側は、そういう点こそ気掛りなものだ。ドラマツルギーだの、映像美学だのと、しゃらくさい。素人衆(つまり我われ)から指摘されるまでもなく、作者たちは先刻承知している。多くの観客が気づかぬほどの細部にこそ、じつは作者たちのプライドが詰っているものだ。

 吹き溜った旅の一行からさえ見下されて、だれにも馴染めぬ夜鷹一人。単独で世の中に対峙している女一人。その女が、あゝいう箸の持ちかたをしたのだ。演出家の頭のなかか、原田美枝子さんの掌のなかに、珠玉はきっとある。創作者が苦心して仕掛けたものが、かならずある。
 女優の指を一本々々引き剥すようにして、掌のなかを視届けようとしないのであれば、批評家の看板など掲げてはいられない。