一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

大きな鍵

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 『文藝春秋芥川賞特集から、もうひとつ。鵜飼哲夫さんによる『社会が震えた芥川賞作家の肉声』という読物がある。

 第一回受賞の石川達三『蒼氓』から今回第一六六回までの、全受賞作家と作品とを視野に収めてなにか読物をという、編集部からのムチャ振りとしか申しようのない注文に筆を執れる書き手が、そうそうあるとは思えない。ご労作だ。
 もとより無理な注文だ。甲の観点からまとめれば、重要なあの作家・作品が漏れる。かといって乙の視点から眺めれば、別の重要作家・作品がはみ出してしまう。一本スジを決めて、そのスジから外れたものは断念するほかない。

 「社会が震えた○○肉声」。芥川賞受賞のさいに、文学界のみならず広く世間に話題を振りまいた作家の発言、という観点から、今も記憶される言葉や逸話を拾った。
 作品の文学的評価や、文学史的位置づけや、後年に残した影響などの側面には、ひとまず眼をつぶって、受賞当時の評判と作家の発言に、焦点を絞ったわけだ。

 筆者肩書には「読売新聞編集委員」とあるが、鵜飼さんは知る人ぞ知る、同紙文化部のエースだ。書評欄を長年ご担当。各界からの書評委員だけでは手の回らぬ新刊書については、みずから書評を執筆した。世の中が、創作家や批評家による個人的視点からだけでは捉えきれぬ、複雑多彩な様相となってきてからは、外注せずにみずから「文芸時評」の筆も執られた。

 さて今回の『肉声』だが、戦前部分から津村節子あたりまでは、ものの本に記された証言や伝承されている逸話をもとに構成するほかはなく、いずれも面白くはあるが、どこかで聴いた、なにかで読んだ記憶がよみがえる噺があちこちに。
 中上健次以降、つまり読売の鵜飼記者が直接取材したであろう逸話や、おそらくはその場に居合せておられたと思われる場面となると、文章は俄然精彩を放ち、情報の耳より加減も一気に増す。一対一の場面で、または電話を通じて、作家が鵜飼さんに直接話した内容まで出てくる。情報即裏付け状態である。
 ゆっくり、よ~く眼を凝らして読むと、鵜飼さんがどの作家を気に入っておられるか、可愛がっておられるかも、おゝよそ見当がつく。面白い。

 ところで、今回初めて教わったのだが、村上龍さんがあるご著書で、「芥川賞直木賞レコード大賞は、近代化途上にある国のもので、役目は終っている」と断言されているそうだ。ほゞ同感だが、それに条件を少々付加えた感想を、日ごろ抱いている。
 こゝが登竜門、これが今期最高と、決めつけて済む世の中ではなくなった。そのとおりだ。単一の価値判断にそって、多くの国民がそれを祝福し、みずからも目指すという図は、まさしく発展途上国的であり、現代の感性にてらせば、むしろ気持悪い。

 しかし、だからといって、衆知を結集して評価を絞り込む試みは、なくなってはならない。「折紙を付ける」「推奨する」仕組みもあったほうが好い。
 問題は、それが唯一の権威であるかのようだと、具合悪いのだ。評価・推奨する立場・視点が明確に表明され、ともに信用ある複数の、異なった視点からの評価が同時併存することが望ましい。
 若い書き手から、「芥川賞なんか欲しくはないが、本屋大賞ならぜひ欲しい」と告げられて、面喰ったことがある。冗談かと思ったら、どうやら本心のようだった。志が低いと一笑に付すのみでは済まされない。不明瞭な価値基準というものを承服しがたい、若い感性がそこにあった。

 芥川賞が、村上龍さんおっしゃるところの近代化途上国的であるのは、あながち日本文学振興会文藝春秋だけの問題ではない。唯一の権威・基準・目星・目標を固定しておいたほうが楽だとする、庶民感情が我われにあるからだろう。つまり発展途上国的なのは、我われの意識である。
 しかしこれは案外容易に転換しうる。条件次第では。その条件とは、メディアと出版界の芸術意識が自由に表明されることである。市場原理や資本の論理とは別に、芸術の価値概念があることに正直になれゝば、転換は短期間に起りそうだ。
 メディアや出版の業界人には、優秀なかたが多いから、じつは今でも、そんなことはご存じだ。たゞご商売を優先させているだけだ。ということは、文学・芸術の周辺におられて、なかば携わっておられるかたがたが、市場原理・資本の論理をいったん脇へ置けるか否かが、大きな鍵となっている。さよう思えてならない。

 まぁ、龍さん、当分は無理でしょうな。そう、お思いになりますでしょう?