一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

ふだん使い

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上坪裕介『山の上の物語――庄野潤三の文学』(松柏社、2020)

 少壮気鋭の研究者による、第一作家研究。庄野潤三作品における「場所」のへの視線、「場所」の扱われかたに着目して、人が安らかに生きるとはどういうことかを考察した労作だ。

 上坪裕介さんは学生時代から、庄野潤三作品に注目。大学院進学後に研究を本格化し、里程標としてクサビを打つかのように、各論を雑誌発表してきた。やがてそれらが整序按配されて、学位請求論文となり、さらに一般読者にも理解容易となるよう工夫をほどこされて、本書となった。

 上坪さんによれば、人の「本来的な在るべき姿とは、場所に溶けこむように場所と共生すること」であるにもかゝわらず、我われは「存在の根拠である場所を、あらかじめ喪失している現代に」生きることを余儀なくされているという。
 ならば、どうやって自分が安らげる場所を発見するか、形成するか、創出するか。また先達はこの問題に、いかに取組んだのか。そうした問題を考えるに、庄野潤三の文学はまたとないヒントとなってくれる、という着眼だ。

 どうやら旧い文芸批評家たちが、「原風景」「精神風土」「故郷消失」などの指標を駆使して盛んに論じた意図と、遠くないご関心のようだ。
 また、永井荷風の小説には言問橋だの吾妻橋だのと、当り前に橋が登場するのに、自分の眼の前には何町何号と記号を振られた歩道橋しかないと嘆き、あゝ荷風のように固有名詞のある橋を書いてみたいもんだと、自己戯画化してみせた後藤明生のような作家の、文明批評的着眼にも通底しそうだ。
 荷風ついでに申せば、「吾は明治の子なり」との荷風名言にからめて、我は昭和の子なりと慨嘆的に自称した磯田光一の例もあった。

 お若い論客が、今から先達の作品にこの問題を探る場合の手づるとして、庄野潤三はまことに恰好と思える。
 庄野潤三には、生誕風土にも家庭環境にも、豊かにして恵まれたものがあった。が、昭和戦争期を通じて、あまりにも多くが喪われた。身内に死者・早逝者が次つぎ出た。平安というものは、人の想像を遥かに超えて、脆い。喪ったものは、代替不可能であり、心痛めてたゞ懐かしむほかはない。平安を回復するには途方もない道のりが必要になる。

 なにげない日常。それがどれほど輝かしきものか。しかも精巧なクリスタル細工に似て、わずかの刺激にさえ、いかに呆気なく、粉ごなに砕け散ってゆくものか。
 はた眼からは、さゞ波と微風にしか見えぬ、小市民の安らぎ。小さな幸せ。じつは剃刀の刃の上を、そろりそろりと渡っているにほかならぬと視た。それが庄野潤三文学である。

 寛容なユーモアとおだやかな人間観察眼の文学。なるほど、一見さようではあろう。だが敗戦後間もなく、気鋭の四人で、ある同人誌が出された。顔ぶれは庄野潤三のほか、林富士馬、島尾敏雄三島由紀夫。その林富士馬先生から、直接うかゞったことがある。
 ――庄野なんか、のんびりとおだやかな男だと、君には見えるでしょう? でもね、こゝ一番で世に出るというときの、庄野の執念ってのはねぇ、凄まじいもんだったよ。そこへゆくと三島のほうは、蒼白い、折り目正しい好青年さ。
 内面と外ヅラは違う。精神と作風は違う。たしか二十五歳だった私は、学んだ。

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 ところで記念すべき一冊目のご著書を、上坪さんから直接手渡しでいたゞいてしまった。場所が人目もあるロビーだったので、代金も支払わぬまゝになってしまった。今から現金書留というのも無粋きわまる。なにかお礼の品物でもと、考える。
 その昔、なまじ民芸について調べた時期があったりする加減か、記念品だの飾りものだのという考えかたが嫌いだ。ふだん使いの道具に限る。
 船出する若き文人の、いさゝかでもお役に立てばよろしいのだが。