国家というものは危急にさいして、いとも簡単に国民を棄てる。敗戦後に旧満洲や朝鮮半島から引揚げてきたかたがたの回想録で、異口同音に証言されている。
軍人・軍属とその家族は南下する列車かトラックに乗った。難民化した民衆を乗せる列車は、来なかった。六百万もの在留邦人が一挙に帰国しては、それでなくても困窮・混乱を極める内地がもたない。現地に溶けこんで、めいめいに生延びてもらうしかない。国家がさように判断したからだ。
「国家」などという人物も固形物も証文もありはしない。つまりは為政者・権力者の「意識」が判断したのだ。
五木寛之少年はピョンヤンを脱出して、自力で南下する群衆のなかにあった。三十八度線は徒歩で越え、ようやく難民キャンプに辿り着いた。途中、数えきれない脱落者が出た。生還者と脱落者とを分けたのは、ちゃんとした靴を履いていたかいなかったかだった。
あの時の政府を許す気にはなれない。五十年前のエッセイでも、うかゞった噺だ。お気持は今もお変りないようだ。さもありなん。変るはずはあるまい。
今でも、つい買ってしまったまゝ一度も履いていない靴を、捨てる気にはなれないと、五木さんはおっしゃる。
働き盛り、分別盛り、いずれも登山道だろう。が、人生百年時代の掛声しきり。下山道も長い。モノは記憶をよみがえらせる依代(よりしろ)だ。手蔓であり、呼水でもある。「ガラクタ」が呼び覚ます記憶の大切さ。モノに助けられての、豊かな回想の時間を過そうではないか。要するに五木さんは、断捨離ブームにまっこうから疑問を投げかけ、真逆の主張をなさる。
五木寛之さんや相前後する年代の作家がたが、あたかも昇り龍のごとく売出しのころが、ちょうど私の学生時分に当っていて、私の世代には愛読者が多かった。その私もめっきり耄碌して、五木さんの言葉だったか、井上ひさしさんの言葉だったか、記憶がはっきりしないが、こんな言葉があった。
「弱虫・腰抜けと嘲われてもかまわない。だらしない・恥知らずと罵られてもかまわない。戦争だけは駄目だ」
その時代を知るかたの、偽らざる本音の言葉と、当時思った。今も思う。
似た言葉を、小田実さんからうかゞったことがある。
「民主主義と平和主義は戦後思想の二本柱だろ。国により人により、民主主義のほうはインチキの場合もあるがね、平和主義のほうは絶対に譲れない真理なんだよ」
政治制度を考えた場合、逆ではありませんかと訊ねたかったが、勢いに気圧されて質問せずじまいだった。下手に未熟な口を挟まないでよかった。今思えば、小田さんのおっしゃったとおりだ。
近年では論客も政治家も、民主主義とはおっしゃるが、平和主義とはとんとおっしゃらなくなった。危ない傾向である。
三十代後半から四十過ぎまで、聞書き取材やゴーストライターの仕事をかなりこなした。むろん有名人の代筆などという、ギャラの高い仕事ではない。ご苦労の半生で小金を貯めたかたの一代記(自叙伝という名の自慢噺)や、創業何十周年記念の社史など、自費出版の請負いである。
もっとも多かったのが、著者若き日に召集され従軍した、戦地での苦労噺だ。おかげでインパール作戦にもニューギニア戦線にも、盧溝橋事件にも詳しくなった。
戦記のなかで「北鮮」などという単語を使おうものなら、とある団体から電話が掛ってきた。存念を糺すからやって来いとのお誘いである。むろん大衆団交まがいの吊し上げに決っている会談に、こちらから出向くことはなかったが。
そんな時、電話口で判を捺したように浴びせかけられた言葉は、お前たちは戦争を懐かしがり、夢よもう一度と企んでいるのだろうとの、決めつけだった。
冗談じゃない。赤紙一枚で連れて行かれ、死ぬか生きるかの思いをさんざん味わわされ、戦友の多くが死んでいったなかで辛くも生残った男たちが、あれをもう一度やろうなどと考えるはずがないではないか。自称運動家という人種の想像力欠如もしくは人間理解の貧弱さには、ほとほと失望したものだった。
戦時中を美化するのは、矢弾の飛んでこない大本営や方面軍司令部などにいた将軍だの高級参謀だのに限られ、前線体験者はほゞ例外なく反戦主義者である。
さような物云わぬ反戦主義者たちが、自作農や町工場の社長や、商店主人や企業の重役として、当り前に生きていた時代には、平和主義という思想も活きていた。
もはや時代は移った。なになに国の威信だって? お前の見栄の間違いだろう。なになにアジアのリーダーとしてだって? 周囲から云われるならともかく、自分で自分をリーダーと称するリーダーなんてもんがありえようか。
さっぱり断捨離がよろしいか、ガラクタと過す回想の豊かさがよろしいか、気質にもよろう。人それぞれかとも思う。いずれにもせよ、物云わぬ平和主義者たちは、下山道を静かに歩いている。
五木先生、どうかお元気で、ほんとうに長生きなさってください。