一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

ゴチャゴチャ

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山下洪文監修『実存文学』(未知谷、2022)

 詩人にして、大学では詩史と詩作の指導者でもいらっしゃる山下洪文さんが、ご一統のお力を結集して編まれた文叢。山下さんご自身の論文や研究調査を柱に、若い筆者たちによる詩・小説・批評が並ぶ。着眼秀逸の二大特集には、ことに眼を惹かれた。

 反時代的な匂いがする、大仰な書名だ。すでにしてそれが本書の意図。
 まずポストモダン以降の文学現況を、かように摑む。さまざまな先行思潮を解体・相対化したはいゝが、代るものが提唱されぬまゝだ。ために若者は、目星となる人間像も信頼できる規範もなしに、喪失感や自己不確定感をかこつほかない。
 自己を視詰めよ。存在の根拠を問い直せ。かつての実存主義を検証することから、再出発してはどうか? かといって、今さら理屈っぽい議論を蒸し返すのではなく、飽くまでも現代の表現を試みながら、根柢または核心に、実存主義的諸問題が潜んでいることに着目しよう。
 さようにうかゞえば、ごもっとも至極のお立場だ。

 さて二大特集だが、哲学者と詩人、市井に紛れた傑物二名の掘起し調査と、評価のための定礎の設置である。ご遺族のご協力や生前に所縁あったかたがたへの取材成果も記録され、本書で初めて世に出る資料もある。研究第一世代として、将来にわたって動かしがたい位置を占めてゆくことだろう。

 一人目は飯島宗享(むねたか)。哲学書の翻訳者、雑誌『実存主義』編集長、専門書出版人として志を貫いたものゝ、その生涯はまさしく礎を置く作業に徹した、いわば市井に身を隠した哲人であり文人である。これまで正当な評価を受けてきたとは申しがたかった。
 山下洪文さんは、実存主義の今日的再評価を模索する第一歩として、まずこの人に注目。人と業績の事実を確定すべく、調査を敢行した。未発表の小説も、未定稿部分を含めて本書に全文掲載されている。

 二人目は鈴木喜緑(きろく)。戦後詩運動の主導的役割を果した「荒地」派の磁力圏にあって、有望な若手詩人として、吉本隆明・中江俊夫とともに荒地詩人賞を受賞しながら、その後ふっつりと姿を隠し、筆を折ったまゝ二度と詩壇に現れることなかった詩人である。暮しぶりも住所も知る者はなく、文学事典等にも没年すら記載されていなかった。
 今回の調査により本書で初めて、詩壇を去って以降の詩人の生涯と、その人柄とにスポットライトが当てられた。山下さん指揮のもと、若手たちによる地道な作業によって、詩誌・労働組合機関誌ほか考えうるあらゆる媒体が博捜されたようだ。詩作品のみならず座談会での発言録までも含めて、現在考えうる鈴木喜緑の全文業が、本書に収録された。

 私の感想は、四点に集約される。若い書き手の作品群とともに「実存」を想うという着想は出色と申せよう。いずれ山下さんのお眼鏡にかなった若者たちなのだろうが、今はまだ、あまりに非力だ。
 この若者たちからさらに芽を吹く者が出て、かつての「思想の科学研究会」のごとく「共同研究」の形態をとらねば、この主題は扱いきれまい。問題はそれほど巨きい、というのが第一点。

 第二点。若者作品ゆえ自然ではあるが、あまりに非力と申すわけは、「実存」を扱う姿勢が、実存的でない。まず自身のどうしようもない現存在性に立脚しようとするのであれば、ドグマ抜きでの自己観察が不可欠となろう。必然的に論法は帰納的となるほかあるまい。が、とかく若者は、どこで憶えてきたものか、自身で確かめてもいないドグマから演繹的論法を立ててしまう。言葉を扱う手つきが、どうしても他人事めく。詩でも、小説でも、批評でもだ。
 動見は静見に優る。禅の言葉だ。暮しの動きのなかで考えたことのみが血肉となる。立止って考えたことなど、当てにはならない。世間の大人たちから、文学青年ふぜいがと、見くびられる所以でもある。
 実存主義は、これを撥ね返せる発見のはずだった。

 第三点。世界的には二十世紀の、日本では戦後の、社会と人心の荒廃を背景に、実存主義は威力をあらわにした。世の中から筋肉も脂肪も削がれて、いやおうなく骨組みばかりが露呈するような時代の申し子のごとき思索だったろう。
 今、実存を視直せとの山下さんの提唱には、涙ぐましいほどの切実さを覚え、共感するものゝ、贅肉と脂肪過多にまみれた現代にあって、なみなみならぬ困難な思考実験となるほかあるまい。
 不肖この老いぼれも、長押から錆ついた槍を降して、今一度推参つかまつらんとの気が起きぬではないが、無念なるかな気力体力それに時間があまりに不足だ。若者たちの将来に期待するほかはない。

 第四点。特集のお二人について私はまったく無知で、今回まさしく蒙を啓かれた。ところで若い筆者がたは、お二人のご生涯に、いかなる感想を抱かれることだろうか。
 つましかったかも知れないし、寂しかったかも知れない。だが私想うに、お幸せとすら申せる、十分なご生涯だった。お一人はキルケゴールへの誠実を貫かれ、もうお一人は旧約聖書の彼方へと帰ってゆかれた。人は、それで十分である。
 もしもお二人のご生涯について、お気の毒というような感想を抱く若者があるとすれば、僭越至極だ。自己実現に不足があって残念というがごとき感想を漏らすのは、どこのどなたがひねくり出したかも判らぬ「自己実現」などという、じつはどこにも該当事実が存在しない観念に踊らされた、未熟な演繹主義者ばかり。まことに実存的でない。

 すいぶん久かたぶりに、ゴチャゴチャした奇妙な、面白い本を読んだ。