一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

立停まる

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 ほうき立ち。数ある落葉樹のうちでも、ケヤキだけが見せる冬枯れの姿である。

 所沢キャンパスに二十年間ほど出講した。駅の正面から、警察署だの法務局支所だの市民センターだといった公共施設や、公園や中学校が並ぶメインストリート。両側はケヤキ並木だった。
 都市計画の几帳面さと申すべきか、第一の交差点までが片側およそ五十株、そこから第二の最大交差点までが片側およそ百株、両側〆て三百株である。交差点で十字になった方角にも続いていたようだったが、そこまでは数えなかった。
 初夏の芽吹き、秋の紅葉、そして冬枯れ。年三回、ケヤキの見ごろはいずれも見事だったが、なかでも冬枯れには心惹かれた。

 第二の交差点を過ぎると、畑地が展がった。首都圏型農業というのか、少量多品目の野菜畑が主だった。無造作な雑木林のように見えて、じつは庭木・街路樹の栽培場だったりもした。
 「諸君、葱畑が了って、いっせいに里芋の苗が並びましたねえ。反対側の葱坊主、あれは来年の種子を確保するのでしょう」
 講義開始の枕に、話題を振ってみても、反応する学生はほとんどなかった。作物が替ると、また振った。毎年振った。ほゞ無反応は、変りなかった。
 ある年、切れてみた。
 「諸君ねえ、詩を書きたいの? 小説書きたいの? 無理なはなしですよ。季節や作物に対して、さように鈍感ではねえ」
 こんな爺さんに、なんでこんなこと云われなきゃならねえんだろう、という顔をされた。
 翌年以降二度と切れなかったが、いちおうは申し続けた。
 「諸君、枝豆はあっという間でしたねえ」

 四十八歳で講師拝命の直後、教師らしい教師臭いなんてのはまっぴらと思い、どうしたもんかと思案していたら、先輩がご助言くださった。
 「教師臭くなるのは仕方ないんだ。おそろしく解らぬ学生もあることだしね。たゞ教師風を吹かせなけりゃ好いんだ。それだけさ」
 なるほど、教師臭いと教師風を吹かすは異なる。これは参考になった。

 ところで、聖徳太子憲法十七条』の第一条「和(やわらか)なるをもって貴しとす」を都合よく引用して、
 「な、だから日本人は昔から平和主義者、協調性重視だったのよ」なんぞとあげつらう人を視かけるが、とんだ我田引水。身勝手な牽強付会の云いぐさに過ぎない。

 『憲法十七条』は朝廷に勤務する官僚・官吏に向けて、就業心得を説いたものであって、民草の気質いわば国民性を云々したものなどではない。
 仕事は山ほどあるのだから、朝は定刻どおりに出勤し、夕方定刻まで目一杯仕事せよ(第八条)。民草千人には千とおりの訴えごとがあるのだから、裕福なものにも貧しいものにも、公平な判断をせよ(第五条)。
 サボりだの、手心だの、袖の下だのを撲滅しなければ、国は治まらぬと、太子は考えたのだったろう。

 上役と部下との関係を(儒学の「礼」に倣って)正しくすれば、官吏と民草の関係もしっかりする。ひいては民草同士の間柄にも「礼」が浸透し、国が治まる(第四条)。
 それにはまず、賞罰をはっきりさせて、褒めるべきは褒め、罰すべきは罰せよ(第十一条)。
 国の主(あるじ)は王(きみ)一人である。民草からの税収全額は王一人に集めよ。中間でくすねてはならぬ。また正規の徴税以外に、民草から集金してはならぬ(第十二条)。
 民草に労役奉仕させるのであれば、季節を考えよ。農閑期ならまだしも、農繁期に召集をかけるなどもってのほかである(第十六条)。

 太子がわざわざかように発令し、それが画期の事績として『日本書紀』に丸ごと引用記載されたということは、当時の朝廷がいかなる腐敗状況だったかを彷彿とさせる。風紀粛正・行政改革に大骨を折ったということだろう。
 こんな条文がある。
 媚びへつらいは国をも民草をも裂く鋭い刃物である。媚びへつらうものはとかく、上に対しては下の不始末を告げ口し、下に逢うときには上の過失を誹謗する。国にとっても民草にとっても、害にしかならぬ(第六条)。

 これだけは大学に知られたくないと懇願してきた女性学生からの書簡を尊重して、調査委員会でも口をつぐんだ。それならば私がセクハラ疑惑教員ではないかということになって、ゼミ担当から外されたことがあった。
 また別のとき、上がそれを認めないという、学生にとって苛酷な裁定がくだった案件があった。当人には末端担当の私が認めなかったのが理由だから、あとは私が責任もって卒業まで看るからと、若者を納得させた。
 貧乏くじを引かされたとは承知しつゝも、組織の一員として、かようなこともありうるかと、無理にも気持を鎮めた。

 所沢市には比ぶべくもないが、我が散歩道の児童公園にも、ケヤキは立っている。聖徳太子的には、あれでよかったのか? 解らん。
 冬枯れを眼に、ふと立停まる。