一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

ヤツデ

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 ヤツデはヤツデ、松は松。確かにな。メダカの兄弟が大きくなったところで、鯉にも鯨にもならないなんて歌詞も、昔あったっけか。

 区切りの好いとこまで、もう少し。そうこうするちに、外が明るくなった。寝そびれた。あとできっと反動が来る。
 陽射しが好い。昨日までとはうって変って、温かい日になりそうだ。眠くならない。外へ出てみたくなる。さわやかな朝の空気と、云うんだろうな。

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 玄関の外に立って、切り石を打つ。往来に向けて、西方に向けて、振返って宅内に向けて、カチカチカチと各三回。十年以上も使っているが、石が小さくなった形跡はない。当然か。わずか日に九打、それも毎日ではない。籠りがちの暮しでは、切り石など思い浮べもしない日がほとんどだ。鎌(鉄)にはさすがに細かい傷が無数についているが。

 歩いてみる気になり、靴に履き替える。ベーカリーは朝から行列だ。ご商売繁盛でなにより。今日は行列の尻尾に着かない。
 一丁目を観てみようか、ふいにそんな気を起す。わが家が横浜桜木町の、さるご大家の勝手口脇に建つ、四畳半ひと間の小屋暮しからようやく脱け出て、一丁目の貸家に越してきたのは、昭和二十九年だった。今住む二丁目に越したのが、昭和三十三年の暮れだったから、四年半ほどは一丁目の住人だった。

 細い私道をドン突きまで入ると、かつて木造平屋があった場所に、今ではこぢんまりと洒落た二階家が建っている。平らな屋上があって、物干し場になさっておられるらしい。

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 今から思えば貧弱な家作だった。父は大学医局の勤務医で、朝出勤してゆき、外来診療などの平常勤務を終えるとすぐさま帰宅して、午後四時から八時まで、こゝで開業していた。目印も看板もなく、たゞ赤い球体の玄関灯が点っているだけの医院だった。
 手ぜまな診察室のほかには、六畳の待合室、同じく六畳の居間、三畳の布団部屋兼子ども寝室、それに板の間台所とトイレ。汲取り便所だったし、風呂は銭湯へ通った。
 父帰宅前から患者さんが見えた。患者さんがたは一畳分の玄関叩きで履物を脱ぎ、和室の待合室に座っていた。事前に座布団を並べておくのが、私の役目だった。

 母は午前中には主婦。午後は器具を整えたり、ガーゼや包帯や綿棒の準備をしたり、診療が始まると父の補助に就いた。
 私は遅い夕食までのあいだ、外で遊ぶ決りになっていた。近所の子らが夕食に帰ってしまったあとは、独りで遊んだ。空想の中では、力道山にだってクリクリ投手にだってなれた。釘刺しの腕前は、近所で一番になった。

 お向うには、トタン屋根の小さい家があって、徳さんというお爺さんが住んでいた。とび職のカシラとのことだった。
 「チロリン村とクルミの木」のガンコ爺さんみたいに、口をへの字に結んだ人で、への字のまゝで笑った。金歯が見えた。坊、坊と可愛がってくれ、酔っぱらうと私を胡坐のなかに入れたがった。煙草臭かった。
 実の兄さんだという長さんが、時どきやって来て、いつもよりたくさん酒を飲んだ。

 お隣は鈴木さんのお住い。その正面つまり徳さんのお隣は、鈴木鉄工所だった。昼休みには、作業ズボンにランニングシャツ姿の職工さんたちが往来へ出て、キャッチボールをした。タオルを頭に巻いたまゝの人もあった。職工さんたちが投げるボールは、シューッという音がした。私が投げても鳴らなかった。

 徳さんちだった場所には、マンションが建っている。鈴木さんちもマンション。どちらも洋風名前のマンションだから、所有者は判らない。鉄工所だった場所が現在の鈴木家らしく、たいそう立派な住宅の表札は鈴木○○。お名前に聴き覚えはない。
 当時、ご長男は立教の大学生だった。「長嶋? あゝ知ってるヨ」なんて云うもんだから、私はむやみに憧れた。表札のお名前つまり現在のご当主は、あのご長男のさらにご子息ででもあろうか。

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 道筋は同じだが、見覚えある建物がない。唯一記憶しているのは教会。この教会ができたときを知っている。突如として場違いなものができたと感じたものだ。日曜学校とか云って、近所の子どもたちにさかんにサービスしていた。私は一度も行かなかった。のちには幼稚園も経営した。
 教会の裏手へ回る。当時は四面とも白ペンキを塗った木造家屋が建っていて、神父さんが住んでいた。茶色い髪の、とんでもなく巨きな人で、いつも寸胴でゆったりした真黒な服を着て、ゆさりゆさりと歩いていた。

 老桜の巨木。さすがに私より古そうだ。当時もこゝに立っていたのだろうか。絶好な傾き具合なのに、登った記憶がない。当時の悪ガキたちなら、禁止されても登ったはずなのに。
 ということは、厳密な立入禁止。近寄ることすら憚られる、威厳というか異国感が漂っていたのだったか。これも白ペンキの、スキーほどの幅の板で組まれた垣根で囲われていたような気がする。板の頭が三角に尖っていたような気がする。

 少し先に、当時からお住いだけれど門構えも塀もまったく変ってしまったお宅。道に面してヤツデが一株。ちょうど実を着けている。
 細竹の節と節の間を切取って、吹矢の筒として、ズボンのベルトに挟んで携帯していたものだった。ヤツデの実を房ごと口に入れ、茎だけをしごき抜くと、口の中が実で一杯になる。連発吹矢を撃つ高等テクニックである。今想えば、衛生的とは申しがたい。

 ヤツデはヤツデ、松は松。尾崎一雄の言葉だ。
 師匠志賀直哉に憧れ、後を追い、模倣しようと躍起になるあまり自縄自縛に陥って、身動きとれぬスランプに見舞われた。なん年かのたうちまわった揚句に、豁然として悟る。師のごとくあろうとしたのが迷妄であった。同じであれるはずがない。しょせん自分は、かような自分でしかありえない。
 それから尾崎は書けるようになった。独自の文学世界も拓けた。ヤツデはヤツデ、松は松。
 私には、子供時分も今も、松なんぞよりはヤツデのほうがよっぽど近しい。志賀直哉尾崎一雄、ともに愛好文学ではあるが、無理にもいずれか一人と詰め寄られゝば、尾崎一雄である。