一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

常識学

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中江丑吉(1889-1942)。北京にて、1937年3月、鈴江言一撮影。

 ボケ切らぬうちに、聴けることは聴いておけ。お若い友人から、過去の文学についての噺を求められる。望むところだと応えたきところなれど、問題がひとつ。

 私ごときにお訊ねあるは、せいぜい過去に書いたか喋ったかしたことの関連事項。もしくはその詳細。ところがどっこい、こちらの記憶はおぼろで大雑把。詳細なんて憶えちゃあいない。読み直さねば思い出せない。
 残り時間にコレは読んでおきたい読み直したいと、読み直してでも思い出せとが、おうおうにして一致しない。

 中江丑吉の噺なんか、どなたも聴きたいとはおっしゃらない。
 「日本の新聞はじつに馬鹿だ」かたわらにポーランド地図をひろげて新聞を読んでいた中江が、吐き捨てるように云う。弟子は身を乗出す。
 「国境の二寸ばかり下に○○という町を探してみな。そこにヒットラー軍の主力がいる。そこから右へ一寸五分の位置にある△△という要塞を落すのに、馬鹿新聞はまず一週間だと書いている。そこは細道で重戦車なんかそうそう通れやしない。道を少しでもはずれゝば、この雪解けで深いぬかるみだ。ヒットラーは勝てないね」
 どうして先生、そんなことがと、弟子は思う。
 「そこは昔、ナポレオンがひどい目に遭った道さ。君、『戦争と平和』はまだ読んでなかったの?」

 深い読書から、ありありと現実を想像できる人だった。学問を庶民常識に変換して理解できる人でもあった。
 カント『純粋理性批判』原文を弟子に読ませる。訳させる。弟子は正確に直訳する。
 「よし、それを普通の言葉に直してみな」
 原語から学問日本語へ、そこからさらに常識日本語へ。二段階の翻訳を学生に求めたという。
 「マルクス資本論』は生活者として必ず読むべき本だ」
 学者として読んだところで、なんにもならんと考えていた。だから学者はあてにならんのだと、しばしば斬捨てた。

 教職にある弟子が、あるときぼやいた。朝礼・国民服・軍人勅諭・皇国経済学、なんでも強制々々でウンザリだ。できるだけサボるようにしている、と。
 「だからインテリは沈痛悲壮がるばかりで駄目なんだ。どうしても譲れぬ二つ三つ以外はみずから進んで従ってしまえ。すべてを護ろうとすれば、すべてが弱くなる。その二つ三つは人それぞれだから、自分で決めて護れば好い。たとえば戦地で捕虜を殺せ、子どもに皇国史観を教えよと強制されたら、潔く身を引いて、迫害を受けてしまえ。朝礼だの国民服ごときは率先して負けてしまえ」
 常識ある庶民がしぶとく(ということは知的に)生きるとはいかなることかを、弟子に説いたのだったろう。

 袁世凱の顧問として赴く教授の秘書として、大学卒業後ほどなく中国に渡った。そのまゝ帰らず、老北京(ラオペーチン、開戦前から北京に住む日本人)となった。
 身分は満鉄嘱託。亡父と懇意だった西園寺公望が、当時の日本最大企業だった南満洲鉄道に口を利いてくれた。つまりはワンクッション、ツークッションあるものゝ、西園寺に食わせてもらっていたことになる。
 本職である中国学の著書としては、生前おりおりに発表された論文が戦後に蒐められた、『中國古代政治思想』(岩波書店、1950)一巻あるのみ。これを理解・判定できる日本人がいったい何人あろうかという、高遠学術書である。

 中江の学問を理解できて尊敬したお弟子がそうそうあったとも思えない。それよりも人柄の庶民性と驚異的な洞察力に惹かれて、多くの人が中江を訪問した。
 学者・芸術家・実業家・外交官・政治家・官僚・軍人・大陸浪人めいた豪傑やヤクザ者まで、寓居は北京を訪れる日本人が表敬訪問する定番コースのごとくだった。日本脱出して地下潜伏中の鍋山貞親片山潜(両名とも日本共産党幹部)をかくまったことすらある。
 むろん地元の中国人たちとも気さくに往来し、遠慮のない付合いも多かった。

 中国へ踏込めば、泥沼に足を取られるだろう。石原莞爾へつなぎを付けて意見具申してみても、熱に浮かされた軍部は聴く耳もたなかった。もはやこれまで。一度ペシャンコにされなければ、日本人の眼は醒めない。それからは平穏な傍観者に徹した。
 やがて戦線は泥沼化し、しまいには英米との開戦となろう。日本は負けるだろう。台湾も朝鮮も放棄して、もとの四島だけの国となるだろう。相手がだれであれ、平気で自説を口にした。だが中江の見通しは、当時のおゝかたの日本人の耳には入りにくいものだった。憲兵隊からは、すね者の変人で要注意人物とマークされた。

 結果として、中江の予言はすべて的中した。北京から一歩も出ることなく、複雑怪奇な世界情勢を読み切ったのである。
 が、読み切ったあげくの世界がどのような風景となったかを、その眼で実際に確かめることなく、昭和十七年に他界した。

 ちなみに西園寺公望が若き日の交友を多として、残された息子のために満鉄へ手を回してくれた、かつての親友とは、中江兆民である。