一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

岩塩の袋

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 どういうもんでございましょうかねぇ。いつの世にも、戦争というものは、絶えることのないもんのようで。

 「奥地では、塩はまことに貴重である。よって一人ひとりが運ぶのだ。もしこれを失ったり、自分で摂取しようものなら、軍法会議ものである」
 曹長殿は、あたしら新兵を脅しつけるように、訓示しました。南京でのことです。
 あたしらは岩塩の袋を背嚢の一番奥底に詰めました。

 昭和十九年十二月二十四日、山口の聯隊に入隊したものの、五日後には福岡港から釜山への船に乗せられました。訓練なんぞ、なーんにも受けちゃおりません。十九歳でした。戦争末期、徴兵年齢が引下げられたのでした。
 釜山から朝鮮半島を縦断。列車を乗り継いで南満洲から華北を経て、揚子江の南京対岸にある浦口まで南下しました。船で南京へ入るまでに、出発してからそう、二週間は経っておりましたかしらん。そこで岩塩の袋を渡されたんです。

 南京から、ほんの少し揚子江上流の蕪湖まで貨車に詰められ、さてそこから配属部隊がある湖南省までは、いよいよ行軍です。衣服をよく洗濯しておけと命じられましたが、あたしぁサボりました。嫌いなんです。
 行軍ったって、内地にいるときからろくな食事なんぞしたことない新兵ばかり。重い軍装でなんか歩けやしません。隊列は長くなり、となりの中隊とまぜこぜになってしまったり、いい加減なもんでした。

 ほゞ全員が腹をこわしています。急に隊列を抜け、背嚢を放り出して、沿道の草むらにしゃがみ込む。間に合わずに軍袴を汚す。さすがに歩きながら排便する奴ぁ視ませんでしたが、便意は急で、おゝむね間に合わない。だれもかれも軍袴の尻が粘液便で、キャラメルでも塗ったようにテラテラになっておりました。
 なんのことはない、洗濯なんて、してもしなくても一緒だったんです。

 今しがたまで近くで、息を切らせて歩いていた兵隊が、ふいに顎を出して身を反らせたかと思うと、カクンッと仰向けに倒れたりします。そうなったら駄目です。たいていは、ほどなく死にます。
 一人だけ、ワァワァギャァギャァ大声をあげて騒ぎ出した奴がありました。同年兵の肩に負われていましたが、その夜、夜営地で死にました。

 あたしぁ仮の分隊長に指名されていました。こんな情けない兵隊なのに、官立中学を出ていたからでしょう。軍隊も「官」ですから。
 兵隊なのに、各自に銃を支給されてはおりません。分隊に二挺ずつです。革帯に銃弾が詰めてあります。これらを失ったら軍法会議もんですが、あたしぁこの銃弾を捨てちまいました。
 また安慶の兵站というところでは、米を預かりました。分隊ごとに割当てがあって、各人の背嚢に納めろというのです。くすねたりしようものなら、これも軍法会議だと釘を刺されました。
 なにせ行軍というのは、軍装や荷物や、襦袢や猿股(つまり下着類)まで、できるのであれば自分の皮膚さえ剥いでしまいたい気になるものなんです。

 ある夜あたしぁ、分隊員に提案しました。背嚢の米を捨てちまおうじゃないかと。賛同する者もありましたが、自分の分だけは持ってゆくと主張した者もありました。当然です。軍法会議ですから。
 夜が明けぬうちに、厠へ立つふりをして、あたりの熊笹の茂みに、自分と賛同者のぶんを捨てちまいました。

 途中からは、夜行軍となりました。昼間歩いては、中国人ゲリラに襲われるというんです。大陸の一部を制圧したなんぞといったところで、日本軍が威張れたのは点だけです。それを繋ぐ線などは、危険地帯に過ぎません。
 とはいえあたしぁ中国人ゲリラの姿を、一度も眼にしておりません。隊列に襲いかかってはきません。脱落しそうになって、一人隊列を離れて歩いていたりすると、やられます。点呼のときに、いないことに気がつきます。やられた現場を目撃した者など、さぁていたんでしょうか。

 ぼろ布のようになって二か月、ようやっと湖南省の配属大隊本部にたどり着きました。
 分隊ごとに、預ってきた銃と銃弾と米を返します。担当将校はそれぞれを確かめ、「よしっ」と云って、受取ります。あたしぁ行列に並ばなかったわけですが、なんのこたぁない、名簿かなにかと照合されたりはしませんでした。
 つぎに岩塩です。驚くべきことに大隊本部では、米については連絡を受けていたようでしたが、岩塩については、なにも報されていなかったようでした。各人背嚢の一番底から袋を取出し、提出しました。ところがこれまた、「よしっ」で済んでしまいました。
 一人ひとりが命からがら運んできた岩塩です。感謝まではされなくとも、芝居がかった引渡し儀式くらいあるのではと想像していたのでしたが、拍子抜けしました。銃弾も米も早ばやと捨てちまったあたしが、申すのもなんですが。

 その夜、分隊の一人が駆寄ってきました。
 「オイッ、塩が捨てられているぞっ」
 なんだとっ。視に行きました。兵舎の裏手の空地です。兵舎はとうに消灯され、わずかに月明りのみとなった闇の中に、うすぼんやりと白っぽく、思いのほか大きな山が、うず高く積みあがっておりました。
 あたしぁ目一杯サボりの、とことん駄目兵隊でした。銃弾も米も、こっそり捨てちまいました。そんなあたしでさえ、どういうもんでしょうか、岩塩だけは捨てることを思いつかなかったんでございます。

 いくどもぬかるみに尻もちをつき、川にヘソまで浸かりながら歩いて渡り、ドシャ降りの雨に何度も打たれるうちに、岩塩の塩分はすっかり抜けて、使いもんにならなくなていたそうです。
 そのときあたしぁ、マタイ福音書の一節を、とつぜん思い出しましてねぇ。
 ――汝らは地の塩なり。塩もし効力を失わば、何をもてか之に塩すべき。後は用なく、外に捨てられて人に踏まるるのみ。

 イエスが山の上で、有名な「貧しきものは幸いなり」に始まる教訓を述べた直後の一節でございますが、「塩もし効力を失わば」の意味を、それまで理解できていなかったと気づきました。このときはっきりと、理解したのでございます。
 お客さまがた、岩塩は塩ではなく、砂でございます。

 おあとがよろしいようでございます。【田中小実昌『ポロポロ』から①】

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田中小実昌『ポロポロ』(中央公論社、1979)