一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言


 家庭用のガスバーナーでも、長年にわたって焙り続ければ、ステンレスだって膨張する。

 母に代って台所を預かるようになって、二十年あまりとなる。その間に私が選んで新規参入したのは、包丁と中華鍋くらいだ。多くは母が買い揃えた調理器具たちである。
 たゞし使い勝手というか好みというか、母愛用だった歴戦の雄がめっきり休みがちになったり、新品同様の未使用品だったものが、すっかり古参兵然としてきたり、ということはある。

 古参の鍋底は膨張する。多くは内側へ湾曲する。油を敷いた場合でも、汁量を看なければならぬ場合でも、周辺に溜って中央が渇くという癖を、承知してかゝらねばならない。インスタントコーヒーのために湯を沸かす小鍋や、煮物のための中鍋がそれだ。が、そこは長い付合い。勘と眼分量とで、間違いが起きることはない。
 稀に、外側へ張り出すように膨張する鍋がある。出汁をとるのに常用している第二小鍋がそれだ。むろんこれだって長い付合い。加減を看るに不都合はない。たゞテーブル上でも鍋敷きの上でも、安定せずにガタガタ動く。不満といえば不満だ。

 腕前と経験があれば、小ぶりの金槌で丁寧かつ小刻みに叩くなりして、修正できるのかもしれない。膨張した金属分子を引締めなおすわけだ。残念ながら私には、その腕前がない。
 昔の主婦は器具を大事に使った。鍋がステンレスではなくアルマイトだった時代には、底にあいた穴を修繕した鍋を視かけたものだった。穴の大きさに見合った釘を通しておいて、釘の頭と尻尾を叩いてつぶすのである。炎が当る外側と、食材に触れる内側とに、イボ状の突起ができる。つぶした釘の頭と尻尾である。
 ステンレスの時代になったこととて、使いたおし磨きたおして鍋底に穴をあけたという経験は、私にはない。

 合羽橋の道具街を散歩するのが、ひそかな愉しみだった時代があった。近年は行かない。想像を絶する新技術や新製品が目白押しで、眼の毒だ。ヨダレの垂れるような品物は寿命も長く、私の残り時間では使いこなせない。宝の持ち腐れというものだ。
 眼の保養などという言葉もあるが、逡巡のあげくに買わない判断にいたったとしても、「買ってみようかな」と一瞬想像できるからこそ、眼福散歩は愉しいのである。可能性のないものは、はなから欲望の対象にはならない。
 芦川いづみさんも、司葉子さんも、欲望の対象にはならなかった。

 ダイソーだったら、使い捨てにしても惜しくない、格安の器具もあるじゃないかという考えかたもある。長もちにこだわらず、どんどん買い替えてゆけばよい。なるほど一理ある。現に、タッパウェアやサラダボウルなどは、ダイソーで買っている。が、失礼ながら、一年で気に入らなくなる。鍋や包丁は、それでは困る。
 では、長く使いたいものと、つねに新しいものに買い替えればよろしいものとの、境界線はどのあたりだろうか。

 消耗品は当然ながら、安いほうがよろしい。茶碗・どんぶり・木椀は、素性のよろしいものと廉価品とを併用したい。境界線を跨いでいる。酒器となると、高価な一品物である必要はないが、自分の眼が納得したものを使いたい。買い替えよりは品質寄りだ。
 ありふれたもの、日常台所で粗っぽく使われているもので、買い替え族に属さず、品質族に属するものはと、しばらく考えた。いちおうの中間結論は、おろし金だ。これには、けっこうこだわる。が、もっと境界ぎりぎりの品質族を思いつくかもしれないので、あくまで中間結論としておく。

 じつは調理器具や食器を話題にしたのは、昨日、大量に使用したからだ。

 なん年か前に、惑星直列が話題となった。惑星の公転周期の最小公倍数ということだろうが、惑星が直線上に並ぶ現象である。
 一昨日、拙宅冷蔵庫内において、惣菜直列の事態が生じた。それぞれ消費周期が異なる常備惣菜が、同時にヤマとなった。あろうことか、小分け冷凍飯までもだ。

 そこで昨日は、炊飯に加えて、煮物・炊き物三種を一斉調理という大仕事となった。三つの鍋用の出汁をとって冷ましながら、野菜の皮むきや刻みから始めて、都合五時間の大仕事となった。年代物レンジにつき目詰まりや不具合もあって、火口一か所しか作動しないがゆえの、やりくり作戦である。
 その間に同時進行で、自分の食事も済ませた。いつもはひと缶で済むビールがふた缶となってしまった。
 巡り合せの不運というものはあるもので、昨日に限って、「ラジオ深夜便」は中止で、NHK予算委員会かなにかの中継を夜明けまで延々とやっていた。

 で、当然ながら、洗いものは山をなした。レンジの火口が傾いていることから生じる不完全燃焼で、鍋底の片側は煤けて黒ずむ。金属タワシでこすりながら、鍋それぞれの底の歪みを、じっくり考えてみた次第である。