一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

寝台の穴

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 毎度、変り映えもなく、胡内にございます。

 敗戦となりまして、八か月あまり経ちました昭和二十一年の四月二十九日、復員命令がくだりました。武昌にある武漢大学の階段教室が、大相撲の升席のように狭く区切られていて、そこで手足を伸ばすこともできずに寝起きしていたのですが、出発することになりました。

 じつはこれは「物語」です。いゝえ作り噺というのではございません。たまたまあたしの誕生日と重なっておりましたので、日付はたしかでございます。たゞ命令をじっさいに聴いた兵隊は一人もありません。出発だとなったものですから、きっと復員命令がくだったのだろうと誰かが云い出し、全員に伝わっていっただけでございます。
 またそこは武漢大学と称ばれておりましたが、戦争前こそ大学だったものの、目下は兵站病院でございました。骸骨のようになった、病人ばかりがおりました。

 言葉にしたとたんに、事実は物語となってしまいます。かと申して言葉にしなければ、記憶できません。あたしらの記憶なんてもんは、しょせん物語の連なりに過ぎませんで、事実がどうであったかなんぞは、本当はだれにも判ったもんじゃございません。

 来たときとは大違いの大きな船で、揚子江の対岸に運ばれ、そこで何日も待たされました。さて何日間くらいかは、判然としません。「しばらく待たされた」という物語として記憶しておりますので、数日ではありますまい。二週間くらいか。早く帰してくれゝばと思ったのはたしかで、「しばらく」という言葉で記憶したに過ぎません。

 患者輸送隊の下士官らがやってきまして、あたしらはジャンクの船底に詰込まれて、何日もかけて下流へと下りました。船底面積の半分は数名の輸送隊下士官が占め、あたしらは残り半分に折り重なるように詰込まれました。突如大声で叫んで痙攣したかと思うと直後に死んでしまうものや、隣りのものさえ気づかぬうちにいつの間にか死んでいたものも、ずいぶんありました。
 それでも揚子江下流へと移動しているというので、かすかな期待を口にするものもありました。

 揚子江の水は伝染病菌ウヨウヨだから、けっして飲んではならぬと命じられておりましたが、飯盒に紐を括りつけて汲み、はじめはボロ布で濾してみたり、時間をかけて濁りを沈殿させてから上澄みを飲んだりもいたしましたが、やがてガブガブ飲むようになりました。
 何日もの(はてこれがまた物語。ずいぶん長かったとの記憶です)船底生活。腹が減って、喉が渇いて仕方ないのです。飯上げ(給食)は毎回、飯盒の内蓋に少々の、白湯のような重湯だけでしたから。

 南京城の端っこの、なーんにもない(草や苔すら生えていない)原っぱの一画が天幕で囲われて、患者収容所となり、あたしらは地面に転がされたみたいに寝かされました。
 動けるものは穴掘りや設営や運搬、収容所造りや厠(かわや)造りの使役に出ました。「下痢しているものは申告せよ」と云われましたが、ほとんどのものは下痢していたにもかゝわらず、手を挙げる者はありませんでした。使役を免除されて楽になれても、飯上げを止められてしまうからです。重労働よりも、空腹が怖ろしいのでした。

 あたしは福岡港を出て以来、ずっと下痢していました。が、こゝ最近の下痢はこれまでとは違っていました。あるとき蛇口から水が出るような排便のあと、厠の穴を覗いてみますと、うどんのきれっぱしが白じろと、便に浮いておりました。
 「うどんダ」と視ただけです。驚いたわけじゃありません。嘆いたわけでもありません。落胆した、おかしかった……どれでもありません。どれも物語です。不思議だ、何だろう、うどんダ、びっくりした、というような時の経過は、すべて物語です。あとから人間が、言葉によってこしらえた表現に過ぎませんでな。
 事実とはいつも、人間の感想だの判断だのを寄せつけぬ、事実それ自体でございます。

 ところであたしの父は、シアトルで洗礼を受け、帰国してからは教会の牧師でした。ですが信仰がさらに深まってゆき、しまいには教会を辞めさせられてしまいました。広島県は呉の山の中腹に独立教会を営んでおりました。
 父の集会所は教会らしくなく、十字架すらありません。天にまします我らの父よ、みたいなお祈りはいたしません。信徒のかたがたと寄り集っては、それぞれ自分流にワァワァギャァギャァうわ言のように、気でも狂ったように騒いでいるだけです。

 古い信徒の一木さんは「ポロポロ、ポロポロ」とひたすら呟き続けます。聖パウロへの讚仰のつもりだそうです。「ハッハッハァ」と笑っているような人も、泣いているような人もあります。「血だぁ」ですとか「十字架がぁ~」などと叫び続ける人もあります。信者同士が往来やバス停で顔を合せても、挨拶のように「ポロポロ」「ハッハッハァ」とやり始めますから、ポロポロが出ないあたしには、恥かしい眺めでございました。

 善良な信仰者の皆さまはしばしば、イエスの前に敬虔であれなんぞとおっしゃいますが、よぉく拝見いたしますと、お祈りしたりお願いしたり、おすがりするご自分自身を、ちゃっかり温存したまゝです。そんな自分をもすべて投げ打ってしまうと、自我なんかガーンと粉々に砕けて、ある日突然ポロポロが始まってしまうようです。
 信仰をもっている、などとおっしゃいますが、ポロポロは持てません。身に帯びることも維持することもできません。父は「たゞポロポロを受ける」と申しておりました。崖から落ちて、いつまでも地上に着かず、落ちっぱなしでいるようなもんで、一瞬々々ポロポロ、どこでもポロポロ、のべつ幕なしポロポロなのです。
 世間のかたからは気味悪がられますし、善良なキリスト教徒からさえ異端者扱いの爪はじきです。
 あたしからはポロポロは出ません。けれど父の信仰に嘘はないような気がいたしております。世間体という面では、たいへん恥かしいのですけれども。

 とはいえでございますよ。昭和十九年十二月二十四日に入営してから二十一年八月に復員するまでの一年八か月に、あたしが経験した戦争は、なんて云っちゃいますと、じゃあ「経験」ってなんだ、物語じゃないかとなってしまします。「戦争」だって「軍隊」だって物語です。そんなもんがあたしにあったのかどうか、あたしがその一員だったのかどうかだって、怪しいもんです。かといって物語の「戦争」「軍隊」以外に、どんな「戦争」「軍隊」があるのかとなりますと、あたしなんぞにはサッパリ判りかねます。

 復員帰国の途上、南京城内の隅っこの原っぱに、天幕を張り巡らせた患者収容所があって、そこであたしは、懸命に隠しておりました下痢がバレてしまい、さらに離れた隔離小屋に移されてしまいました。検便の結果コレラに罹っていると判明しました。揚子江の泥水に当ったのでしょうか。
 小屋には、コレラ患者専用の寝台がございました。頭から二、足先から一、つまり三分の一の位置に、五合桝と一升桝の中間ぐらい、さようでございますねぇ、十センチ平方ほどでしょうか、真四角の穴が開いておりました。コレラ患者の便意はあまりに急なため、身を起して袴下(ずぼん)を降ろすに間に合わない。そこで仰向けに寝たまゝ排便するための穴だとのことでございました。

 隔離小屋へと移されたその日、初めて眼にした寝台の穴は、いかにもアナっぽく見えました。
 穴がアナっぽい! それ以外の申しようはすべからく勝手な物語に過ぎない。まさにそのような穴でございました。

 三夜にわたりましたる田中小実昌編のお退屈。これをもちまして、ひとまず語りおさめといたします。【田中小実昌『ポロポロ』から③】

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田中小実昌『ポロポロ』(中央公論社、1979)