一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

花形青年論(小説の起源③)

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 泰平の眠りを醒ます蒸気船、たった四杯で夜も眠れず。

 神奈川県は浦賀の沖合い、ある日突如として、それまで視たこともない巨きな、しかも船影黒ぐろ鉄の船が一二三と四艘も、不気味な黒煙をたなびかせて現れました。
 世に云う黒船来航。嘉永六年(1853)、坪内逍遥小説神髄』刊行よりも、遡りますこと三十二年前のことでございます。
 米国海軍、東インド隊司令長官ペリー提督ひきいますところの……アッ、お若いお客さま、海軍だから提督ね、陸軍だったら将軍でいゝの。ついでに軍の頭脳に当る部署は、陸軍なら参謀本部、海軍なら軍令部って云うのね。

 さてこのペリー提督、米国大統領より幕府に宛てた親書を携えておりました。海難に遭った船舶などの一時避難場所として、また水・食糧などの補給処として、港を利用させて欲しいと、まぁ表面上はなっておりましたが、つまりは開国しなよ、交易しようぜという意味でございました。
 鉄船からは巨大な砲身がにょきにょきと突出され、こちらに向けられております。乱暴な振舞いに及ぶようなら、どてっぱらに一発お見舞い申すぜといった構え。

 さぁ幕府首脳陣、慌てました。暫時お待ちを、と時間稼ぎをいたしましたものの、さていかに対応したものか、議論百出、意見がまとまりません。
 翌安政元年(1854)には日米和親条約に調印。国内には反対意見も多く、幕府はこれを徹底弾圧。世に云う安政の大獄。恨みは治まりませんで、安政七年(1860)には桜田門外の変。開国政策の責任者井伊大老が暗殺されます。
 改元されて万延元年(1860)、元年しかなかった元号でございます。たしか大江健三郎さんの『万延元年のフットボール』は六十年安保のちょうど百年前が万延元年だ、というアイデアでございましたね。

 万延の次は文久・元治、あとは慶應・明治と続きます。六大学ではございません。
 すなわち世は挙げて、開国だ攘夷だ、佐幕だ勤王だ、国論を四分五裂させての幕末乱世でございました。
 わが国に乱世はいくたびかございました。古くは大化の改新後の大海人・大友両皇子が後継争いをいたしました壬申の乱。中ごろは、天皇家の後継争いの双方を摂関家が分裂して後押し、そこへ源氏平家がそれぞれ尻尾についての大内紛。世に云う保元・平治の乱。近くはおなじみ戦国下剋上

 しかし考えてみるまでもなく、いずれも争いのもとは統治権力の帰趨。彼方も此方も目指すは同じ。つまりは権力闘争の内戦でございました。
 が、今回は事情が違います。まず先方が、なにを云ってるのか、なにを考えているのかが解らない。長崎のオランダ人とは異なる言葉を喋る。孔孟も神仏も、まったく知らぬらしい。こゝで対処する手つきを誤ると、皇統の跡目どころか、国が消滅してしまいかねません。
 過去における権力争いの軍事的乱世とはまったく意味合いを異にした、未曾有の思想的乱世でございました。

 さてお客さま、こゝでちょいとご想像くださいまし。もしもその時代に『文藝春秋』が発行されていて、「期待される青年象」特集をいたしましたら、いかなる記事となったことでございましょうか。
 世に求められるは、(一)外国の言葉が解る奴、(二)外国の信仰・美意識・価値観などを理解・想像できる奴、(三)わが国と同様の立場に立たされた清国や朝鮮やその他の国々の事情を知っている奴。さような青年であればすぐにでも、世の中の中枢へと躍り出られる花形となれよう。さような時代でございました。

 ところが、目まぐるしき改元慶應まで。明治は長く続くことになります。明治も二十年近くともなりますと、乱世の怒涛はいちおう去りました。どうしたらよいかと慌てふためく時代から、おゝむねこちらの方向だろうと見当がついた時代に入りました。いわく文明開化、和魂洋才、殖産興業、富国強兵、これらでございます。憲法発布や国会開設はまだ数年後でございますが、未来を視据えて着々と、具体的な手を打ってゆく時代となってまいります。

 そこでお客さま、もしもその時代に『文藝春秋』が、アッもうよろしい、はい。いかなる青年像が期待されるようになったでございましょうか。
 (一)行政能力のある奴、また行政のための法律を立案できる奴。(二)国策に沿った事業を起せる奴。外貨を稼げる奴。(三)強い軍隊を創設・維持できる奴。さような青年こそが、世の花形と嘱望されるようになりました。

 今日区分で申しますと、法学部・政治経済学部商学部・体育会が、あらたな花形でございます。三十年前に花形だった文学部の青年たちはと申しますと、
 「あ、とり急ぎの役には立たない特殊技能の連中ね。必要があったら呼ぶから、そん時はよろしく。まずは隅へ引込んでてちょうだい」
 かつては花形オピニオンリーダーでしたが、今は諮問機関的存在。用があれば答申を作成するだけの立場となってしまいました。
 文学部の青年たち、心中いかがだったことでございましょうか。
 「ざけんじゃねえぞ、テメー!」と、想ったことでございましょうねぇ。

 そんな明治十八年、『小説神髄』にて、坪内逍遥は高らかに宣言いたしました。
 ――小説の主脳は、人情なり、世態風俗これに次ぐ。――
 江戸文学の形骸化した形式主義や、斜に構えた低徊趣味を打破しようと意図した文学論でございましたが、深読みすれば、こうも読めました。
 組織だ制度だと云ってみたところで、それだけじゃ外枠・側(がわ)に過ぎない。問題はその内側の人間たちだ。人の心だ。そこが抜けていては、しょせんは「仏つくって魂いれず」に終るほかない。国の近代化は、まず人間の近代化から。
 そうだ、逍遥先生も云っておられる。文明開化なんぞと云ったって、核心部分は制度ではない、技術でもない。人の心が中心だ。人の心の研究と表現。そうなりゃあ俺たちの出番だ。文学部青年たち、いやはや、奮い立ちました。
 今日の受験用文学史年表でも、ゴチック体で強調されていながら、ほとんど読まれた試しのない伝説上の古典『小説神髄』は、とある青年たちにとっては守り本尊にも等しい、革命的な一書でございました。

 あくまでも人の心が中心。この考えかたを、業界用語で浪漫主義と称び慣わしております。こゝで奮い立ちました浪漫主義青年たち、後のちドデカイ仕事をやってのけることとなるのでございますが、それはまた、次回ということにさせていたゞきます。
【小説の起源③】