一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

どうかして論(小説の起源④)

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 明治二十年代は紅露逍鴎の時代。文学史研究の業界用語では、さようにおっしゃいます。尾崎紅葉幸田露伴坪内逍遥森鴎外の四人が、文壇の中心人物として充実した仕事をなさった時代、という意味だそうで。

 しかしその二十年代はまた、前回申しました浪漫主義青年たちが、いまだ頭角を現すにいたってはおりませぬものの、次なる時代に羽ばたくを期して勉学に励み、必死の試行錯誤を重ねていた時代でもございました。最たる実例が、雑誌『文學界』に集いました青年たちでごさいます。創刊は明治二十六年のことでございました。
 一同の兄貴格で理論的先陣でもありましたのが北村透谷。やゝ年少の戸川秋骨島崎藤村平田禿木らがありました。周辺にあって切磋琢磨したり、寄稿したりしたものには、樋口一葉田山花袋柳田国男らがありました。

 北村透谷は新体詩を創り、評論を書きました。内面こそが大切だ。恋愛あってこそ輝く生命だ、人生の価値は内面欲求の実現にある、などなど、浪漫主義の急先鋒といった評論群でございまして、その予言者的側面は今日でも一読にあたいすると云われております。
 なかにこんな評論がございます。明治二十五年に内田魯庵(当時は不知庵と名乗っておりました)によってドストエフスキー罪と罰』が初めて翻訳されました。それを読みました透谷の感想でございます。

 哲学的難問を証明しようと、みずからを実験台とすべく、ずいぶん観念的な動機による殺人を犯してしまった主人公ラスコーリニコフ。下宿に閉じ籠っております。心配した女中さんが、扉の外から「どうしたの、お加減でもお悪いの?」と声を掛けてくれます。すると主人公、「いや何でもない。考えるということをしているだけだよ」と応えるのです。
 「考えるということをしている」。何事でございましょうか? 翻訳が古臭くて、固苦しいのでございましょうか。あるいはさようだったのかもしれません。が、透谷はまさにその箇所に、ピカーッと閃いたのでございました。
 そぅれ視ろ、ドストエフスキーは解ってるんだ。俺の思ったとおりだ。

 あゝ考えるこう考える、こういう目的で考えるあれについて考える。それまで「考える」という動詞は、目的語をともなう動詞でございました。ですが目的だの対象だのが尊いんじゃない、考えるということ自体に、かけがえのない尊厳があるのだと、透谷は主張いたします。思索の自己目的化でございますね。
 憲法にも基本的人権が謳われていることを小学生時分から教わり、生命は地球より重いなんて云いぐさを平気でなさるかたもおいでの現代からでは、ちょいと理解しづらいかもしれませんが、この時代にありましては、とびぬけて北村透谷らしい着眼でございました。

 文芸批評家でもあり宗教学者でもあられる佐古純一郎先生のお調べによりますと、西洋語パーソナリティーの訳語として「人格」という概念が日本人に浸透してくるのがこの時代。そして新聞・雑誌の紙誌面に「人格」という表記がチラホラ現れてまいりますのが、まさに明治二十年代の後半ころからだそうでございます。
 その直前の時期、各方面の優秀なかたがたが、それぞれ別個に胸中で予感しつゝ、どう表現したものかとモダモダしておりました、新しい時代の新しい概念を、透谷の直観力もまた嗅ぎつけていたのでございましょうね。

 ですが速足に過ぎますのはつまづきのもと。あまりに多く考え、多く苦しみました北村透谷は、明治二十七年に自殺してしまいます。雑誌『文學界』はその後も続きましたけれども。
 透谷を兄貴分と慕い、おゝいに影響も受けておりました年少の同人が、島崎藤村でございます。さぞやショックだったでございましょう。
 当時の藤村は、猛烈に勉強いたしてはおりましたものの、想いを寄せる女性とどうにかなるでもなく、悶々として放浪的な旅に出てみたり、まぁ野暮天の朴念仁といったタイプでした。
 『文學界』に発表した新体詩は優れたもので、やがて詩集を編んで刊行。評判にはなりましたが、現在のように巨大な出版マーケットがあるわけでもなく、詩を創ってオマンマをいたゞくなんてことはできません。暮しに窮し、尾羽打ち枯らして都落ちするように、地方の教員生活へと流れてゆくわけでございます。

 妻と子どもたちにも貧乏を忍ばせつゝ、教員暮しの中でも文学への志を捨てず、捲土重来で上京して最初の長篇小説『破戒』を自費出版して大成功。これが明治三十九年。透谷自裁から、じつに十二年も経っておりました。
 この間に、三人の幼い娘たちが、下から順に亡くなってゆきました。夫人は長年の貧苦からトリ眼になっていたと申します。
 わが国の文学史上にあっての大恩人藤村。しかしおそばにお暮しだったかたにとりましては、鬼だったかもしれません。

 あくる明治四十年、仲間の田山花袋による『蒲団』が出まして、これまた大評判。『破戒』『蒲団』のワンツーパンチによりまして、文界のトレンドは自然主義文学へと、一気に雪崩れてまいります。
 勧善懲悪・因果応報の形式重視では駄目なんだ。惨めでも、理不尽でも、たとえ世間さまからヒンシュクを買う内容であっても、本当のことが尊いのだ。たとえ下品で恥知らずであろうと、欲張りで助平であろうと、それが嘘いつわりのない人間というものであるならば、描いて暴き出すがいゝのだ。なぜなら、たしかに実在するにちがいない「内面」というものには、絶対の存在価値があるからだ。
 浪漫主義でございます。

 ワンツーパンチ出ましたさらに翌年、明治四十一年には、島崎藤村によります二番目の長篇『春』が世に出ます。前作『破戒』とは趣の異なる作品でございまして、ひと口に申せば青春回想録。作者自身の十数年前、雑誌『文學界』仲間たちとの交友のひと齣、また各人の人間像の描き分けでございます。
 こしらえといたしましては、主人公が青木(透谷がモデル)、それを眺める語り手が岸本(藤村自身がモデル)。その他の仲間たちも、それぞれ誰がモデルと明瞭に判るように描かれております。その仲間たち、馬場孤蝶戸川秋骨平田禿木らによる後年の証言によりますと、『春』に採りあげられた逸話・細部など、おゝむね事実が粉飾なく再現されてあるそうでございます。
 孤蝶・秋骨・禿木らは、藤村のように小説家とはなりませんでしたが、いずれも特色ある、いえ趣ある粋な英文学者として、ご立派なかたとなられました。すこぶる愉快な逸話も多いのですが、こゝでは脱線になりますので、お預りさせていたゞきます。

 さて『春』です。愉快だったり血気盛んだったり、重苦しかったりする青春武勇伝の後半で、青木(=透谷)は自殺してしまいます。岸本(=藤村)は失望のあげくにとうとう食い詰めて、都落ちの気分。仙台行き夜行の車中の人となるラスト・シーンです。
 空っぽの心で窓の外を眺める。田畑、山々、人の姿。
 「あゝ、自分のようなものでも、どうかして生きたい……」
 さよう独り言をつぶやいて、『春』は終ります。

 お客さまがた、これでございます。これが、浪漫主義でございますよ。
 浪漫主義、申すまでもなく西洋語ロマンチシズムの訳語でございますが、かような業界用語で申すから、もひとつこそばゆくて、解ったような解らないような。こゝは一番、胡内得意の乱暴換言術。
 浪漫主義とは、「あゝ、自分のようなものでも、どうかして生きたい」主義! これでございます。
 えっ、えっ、えぇ~っ、そんなぁと、お思いになられますか? しかし本当でございます。たゞし、周辺のお噺を若干申しあげませんと、ご納得いたゞけぬかもしれませんですね。それはこの次に。
 ヤ~ルマイゾやるまいぞ、この次にこの次に、ヤ~ルマイゾやるまいぞ、この次にこの次に~。
【小説の起源④】