熊本大地震が、二〇一六年の今日だったそうだ。こういう季節だったかと、あらためて想う。
当時、熊本市ご出身の友人にお見舞いを申しあげ、ご家族ご友人の安否をお訊ねしたところ、ひどい実害をこうむられたかたは一人もないとのお応えに、ほっとしたものだった。
「そんなことより、お城の石垣が崩れたことのほうが、ショックだったようですよ」
とのお応えに吃驚した。熊本市民にとって、のみならず県民にとって、熊本城というものがどれほど誇りだったか、いかに精神的支柱をなしていたかを初めて知り、胸を衝かれた想いだった。
ところ変れば品変ると月並に云うけれども、食べものや物の称び名ていどであれば、聴けば即座に納得できるし、事情や理由も容易に想像できる。が、ご本人すら日ごろは自覚しておられなかった精神的支柱となると、そういうモンかねぇと、しばし唸らされる。
諫早湾干拓事業で、水門がいっせいに封鎖されたのが、一九九七年の今日だったそうだ。二十五年前。もうそんなに経ったのか。
まるで仕掛け花火が連続点火されてゆくかのように、正確な順序でバタバタバタァ~っと、部厚い鉄板が水しぶきを挙げて海中に落下してゆく映像は、衝撃的だった。
福岡高裁から最高裁判断まで仰いだ、大事業だった。
地元住民や漁業関係者にも、有識者にも、反対意見は多かった。むろん推進論者もいらっしゃったけれど。
事業の動機がうさん臭かった。立案は何十年も前。食糧が足りない、農耕地が足りないという時代の行政着想。今や食糧は生産調整や品目選択の時代に移り、水田については減反政策の時代ではないか。時局を視よと、お役所仕事の硬直化が非難された。
何十年も前に決った方針でも変更はできない。歴代担当者たちが申し送り事項として新任担当者に引継いできた案件。外野席からはたしかに、時代錯誤の滑稽事業と見えなくもなかった。
しかし事業の動機には、農地政策の側面のほかに防災政策の側面もあった。火山から流入した岩石や灰土が急速に堆積する湾では、水害の危険が大きいとのこと。この地域は過去六百年にわたって、台風時の増水ほか水害に見舞われてきたのだと、話の規模は巨きい。
推進論者たちも、それを云った。また農耕地についての喫緊課題が去った時代だとはいえ、水ぎわである利点を活かして、養殖産業や緑地・公園化や、有効利用の方策はいくらでも立つと主張された。
遺恨は、そりゃァあるだろう。が、とにかく二十五年も経っちまった。イフはない。干拓地は、いろいろに活用されていると聴く。
そして今年の今日は、地震被害で部分不通だった東北新幹線が全線復旧開通する日だという。
すいぶん時間がかゝったねぇとの、感想を漏らすかたもおいでになる。私と同様に、復旧と耳にして、工具と人手による物理的作業としての復旧の図を想い描いてしまわれるかたがただろう。作業員がツルハシでバラストを掘り起し、バールを突っこみテコの原理で線路や枕木を動かしている図が、思い浮んでしまうのだろう。
じっさいには送電設備の再建や、電気系統と電子機器にまつわる部品点検・機能チェックだろう。車輛を線路に乗せるのなどは、最後の最後だったことだろう。
とにかく、めでたい。ご尽力の皆さま、ご苦労さまでした。