一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

ほの渋い

佐藤洋二郎『Y字橋』(鳥影社、2022)

 あの人は、あの後どういう人生を送られたのだろうか。お幸せだったろうか。今もどこかで、おすこやかにお過しだろうか。

 一度だけでも、お会いしてみたい気もする。相手が女性の場合は、とくに。
 伝手をたよって手蔓をさぐり、足を棒にすれば、可能かもしれない。あるいは興信所のような調査機関に依頼すれば、容易なのかもしれない。
 だが、やめておこう。やはり野に置け蓮華草ということもある。『舞踏会の手帖』ということもある。だいいち、当方がすっかりみすぼらしく醜い老人となり果てた今、先方だって興醒めだろう。ご迷惑ですらあろう。

 老人は、過去のピースをモザイク・タイルのように組合せて日々を過している。新しいことなど、さほど望まない。未来への関心を失ってはいないが、うまく思い浮べられない。あれこれの新情報や新技術が理解できないからだ。
 あの人は今どういう……ふと想ってみるだけのことである。

 佐藤洋二郎さんが、ご新著『Y字橋』をご恵送くださった。二〇一七年からの四年間に文芸雑誌に発表された、短篇小説六篇を編んだ小説集だ。奥付日付を視ると、まだ発行日前だから、書店に並ぶのはこれからなのかもしれない。
 私と同齢の佐藤さんだが、じつによく励まれて、お仕事量の多いかただ。おそらくは、途中から娯楽小説へ転身なさったかたは別として、純文学一本で通された現役小説家としては、日本で一番お仕事量の多いかたではあるまいか。
 題材により狙いにより、作柄はいくつかに分類できようが、なかでひとつの方向を辿った諸篇を、本書に集めてある。

 その方向とは、作者等身大の主人公(一人称視点も三人称視点もある)が、めっきり老いを自覚させられる日常にあって、ふいに何十年も前に縁あった女性と再会する噺である。
 甘酸っぱい縁もあれば、ほろ苦い縁もある。時おり思い出すことがあった人もあれば、すっかり忘れたように過してきた人もある。生きてるうちに一度会っておきたいと連絡してきた場合もあれば、まさかこんなところでと意表を衝かれたかたちで出くわした場合もある。そこは、それぞれの物語だ。失礼ながら、佐藤さんへのお礼状には「ジジィ向けのメルヘンですね」と書き添えておいた。

 再会すればどうしたって、その頃の自分と彼女、その時代の空気と互いの身の上を思い出さずにはいられない。そして自分と妻による現在にいたるまでの闘いの日々を想わずにはいられない。
 記憶は甘酸っぱかったりほろ苦かったりするけれども、現実はそれらの味を去って(というか味など抜けてしまって)、そんな日本語はないが、たゞ「ほの渋い」味のような匂いのような、手触りのような気配が残っているばかりだ。

 『光』。旧友の通夜で、久かたぶりの女性に逢う。彼女と旧友との間には、自分の知らぬ側面があったと、初めて知らされた。まっすぐ帰宅する気になれず回り道して、何十年ぶりかで訪れる街を歩いてみた。記憶と同じ屋号の居酒屋がある。まさかと思いつゝも暖簾を分けてみると、かつての看板若女将がマクベスの前に現れるような老婆となって、そこにいた。
 深酒して帰路につくが、電車内で眠りこけ、乗り過してしまった。初めて降りた駅。駅前にはタクシーの影もなく、商店の灯すらない。いきなり林が続くばかりで、どちらへ歩けば街道へ出られるのかも判らない。またか、済まないと思いつゝスマホを取出し妻へ応援要請。そのまゝ駅前にへたりこむ。また居眠り。
 どれくらい経ったろう、妻の車が到着して起される。街道まではけっこうあるらしい。助手席から眺める沿道は黒々とした闇一色で、わずかにヘッドライトに照らし出された部分だけが一瞬森となり、側面へと飛び去ってゆく。
 鬼気迫る光景だ。呆れを通り越したのか、妻は案外平然としてくれている。夫婦の会話のそこはかとないユーモアが、一篇を救い、締める。

 技法の面では、全篇通じての特色ながら、ことに注目したのは『ガスマスク男』『虹』だ。現在・過去・大過去の遠近法を圧縮して、それどころか消去して、一枚のガラス板の上に色とりどりのシールでもベタベタ並べるように展開する。初心者の小説手習いには、お奨めできない。
 本書の場合には、現在の眼前光景と、ふいによみがえる記憶の断片的情景とは、まさにこのように前触れもなく、しかも均等な存在感をもって襲いかかってくるとの現実味を帯びている。年寄りが過去を蘇らせずにいられぬ、または過去に縛られてあるとは、おっしゃるとおりこんなふうだと思い当り、納得できる表現だ。
 近年の若手小説家たちが、どんな狙いで描写しているものか、事情に暗いのだけれども、佐藤さんのこれ、けっこう佳いんじゃないだろうか。