一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

くぐつ

真鍋呉夫(1920-2012)、長らくご逗留中。

 心に残る文士であられた。

 駆出し編集者だったおり、真鍋呉夫さんの原稿を、いたゞきそこねたことがある。
 句集『雪女』で藤村記念歴程賞と読売文学賞とを受賞されて、お見事な大復活をとげられるよりも前のことだ。駆出しにとっては、自分の読書範囲の外にいらっしゃる怖いような作家で、いわば幻の作家のおひとりだった。
 仲立ちあってお預りした原稿は、それまでの作品集に収録されなかった初期短篇集で、いずれもまだ九州にお住いだった時代、奥さまと新婚ご夫婦であられた時代に材を採った、瑞々しい小説だった。
 それまでは、中島敦の後裔かと思わせるような、古典に材を採った、調子の強い文体をもって志高い作風を示されていたから、ちょいと意外だった。面白く思い、社内で刊行順序が回ってくるのを、愉しみにしていた。

 私が籍を置いていたのは新興の零細出版社で、画に描いたようなワンマン社長の放漫経営。金には異様な執着があっても、文学への夢や愉しみは、これっぽっちも抱いてない経営者だった。新米社会人の眼からも、危なっかしく見えていた。
 案の定資金繰りは苦しく、営業部や編集部を素通りして社長室へ直行する来客は、金融関係者か不動産関係者ばかりだった。
 だれからとなく、この会社はもう駄目だとの噂が聞えはじめた。金融関係といっても、それまでの信用金庫の課長さんだけでなく、債権者代表と称する古手の総会屋みたいな謎の紳士や、怪しげな手形を何枚も持込んで交渉にやってくる裏社会の人員らしい顔ぶれが、小半日も社長室に腰掛けているようになった。

 この会社はもう駄目と明かでも、社員たるもの外部に実状を漏らすことは許されない。あっという間に噂が広まって、身動きとれなくなってしまうからだ。
 しかし問題は倒れかただ。道義に則った清算ができればよろしいが、金融機関のみならず怪しげな債権者たちが押しかけてきて、少しでも換金できそうなものなら根こそぎむしり取ってゆくというような、弱肉強食ハゲタカ状態になったらどうするか。
 事務機器や什器備品など痛くも痒くもないが、新刊在庫や仕掛りのゲラ類や、手元にお預り中の生原稿にまで疵がつく事態となっては堪らない。

 私の企画で刊行されたばかりの新刊小説が一点あった。むろん印税は未払いである。営業部長と図って、深夜出勤した。倉庫に忍び込んで荷造りした。印税相当の現物を、著者へ発送したのである。
 その足で翌朝新幹線に乗り、広島へ飛んだ。著者にココダケノ話として事情を伝え、どうか未払い印税分のご著書を現物でお納めいたゞきたいと、伏してお願いした。
 東京へ戻り、次はさて、真鍋呉夫先生の生原稿である。石神井公園のお住いにお訪ねして、ハズカシナガラとお詫び申しあげ、とにかく玉稿を疵にしてはならぬからと、お返しした。もし私がふたたび文芸出版社に勤務することができたら、もう一度くださいと、惨めなお願いをした。

 それが真鍋呉夫さんとの、まだ二度目の対面だった。穏やかな笑みを絶やさぬ奥さまと、女優さんのように正しく綺麗なお辞儀をなさるお嬢さまとで、静かにお暮しのところへ、なんともがさつで埃っぽい話題を持込んだものである。九州男児らしい剛毅な面持ちと、はっきりおっしゃりきる言葉をお持ちのかたで、怖い面とシャイでお茶目な面とが混在するかただった。

 私がとった行動は、人間として男一匹として、社会人として会社員として、背任行為だったのか、それとも許される防衛だったのか、今もって判断がつかない。
 その後、倒産にまつわるゴタゴタがあって、凶状持ちのごとき身となった私に出版社勤務の道はなく、通販会社で広告や機関誌のコピーライターとして過した。ほとぼりが冷めたころ、また零細出版社勤めとなったが、分野違いで、二度と真鍋先生から原稿をいたゞく身分とはならなかった。

 真鍋呉夫さんは、俳号を天魚と名乗られ、俳人として、また歌仙(連句)の宗匠として、まばゆいばかりに復活なされた。読売文学賞受賞の後に、お祝いに参上したが、内心は恥かしかった。惨めな自分であると思った。

 天魚先生の落款は、剛毅で丈高い側面ではなく、ユーモアを愛するお茶目な側面が出たもので、ご自身でもお気に召しておられたらしく、これを常用しておられた。