一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

変化する

新井 満(1946-2021)

 小説家、詩人、シンガーソングライター、映像プロデューサー、写真家、絵本作家……。とにかく多芸多才なかただった。それらの前に、電通社員だった。
 それでいて、ガリガリ掘削するようにお仕事をなさっているようには、見えなかった。(実際は大車輪のご多忙だっただろうに。)つまり、お洒落なかただった。

 小説家としてデビューしたころ、電通社員として「環境ビデオ」の企画を提出して、ボツになったなんぞと、おっしゃっておられた。そんなもの、まだ世の中のどこにもない、突飛な発想だった。主題となる被写体もない、頭も尻尾もない垂れ流しの環境映像など、商品になるはずがないと、だれもが思い込んでいた時代だった。
 今はどうだろう。大病院の待合室では大きな水槽に熱帯魚が泳いでいる。銀行の待合ベンチの脇では見晴かす麦畑に風が渡っている。ホテルのロビーでは滝から水が落下している。どういう仕掛けかと興味を惹かれて近寄ってみると、巨きな液晶パネルが壁ぎわに設置されていて、ビデオ映像が音もなく、流しっぱなしにされているだけだ。
 「癒し効果」なんぞという流行語も、まだなかった。新井さんの企画は、早過ぎたのだ。

 芥川賞を受賞したからといって、次つぎ作品が発表されるでもなかった。ずいぶんのんびりした作家だ、やはり天下の電通社員さんともなると、我われ野良犬どもとは余裕が違うわいと、私なんぞは想った。けた外れに柔軟で幅広い発想力をそなえた特異な才能の持主で、私なんぞとはなんら重なる点がないかたと、お見受けしていた。

 森敦の作品、ことに『月山』にたいするたゞならぬ関心を示され、あれこれ実行に移されたとき、オヤッと思った。うっすらと注目しておこうかと、肚の内にメモした。

『自由訳 般若心経』(朝日新聞社、2005)

 『自由訳 般若心経』には感心した。般若心経を音としてでなく意味として読める日本人は、多くあるまい。ところが新井『自由訳』であれば、読めぬ漢字があると不平を唱える日本人は、まずあるまい。それほどまでに、経典を噛み砕いて見せている。それにこの本の形式たるや、仏教思想書ではない。詩集であり絵本である。

 ご関心おありのかたも多かろうが、般若心経の核心部分は「空(くう)」の概念をいかに感じとるか、またはイメージするかにかゝっている。色即是空の「空」だ。空即是色の「空」でもある。新井訳の核心イメージも、その点にある。
 「空」とは、変転つねなきもの、片ときも留まらぬもの、固定した形を採らぬもの、という意味だそうだ。生命体であれ無生命固形物であれ、いっさいの存在物は動きをやめない。色即是空である。
 では在り続けている存在物とはなんだろうか。手始めにこの私とは、私が咥えている煙草とは、なんだろうか。いずれも変転つねなく、つまりは一瞬々々滅し、一瞬々々新たに産れているとのことだ。にもかゝわらず、人間にはそれらが「在り続けて」いるように見える。空即是色である。

 そんなふうに云われてもナァと、だれしも思う。だが――。
 素粒子論や量子力学のかたがたがおっしゃるには、物質をどこまでも細かく砕いて、極限にまで砕いてゆくと、最小微粒子の世界では、存在物とは物質なのか、運動なのか、エネルギーなのか、判らなくなってしまうそうではないか。というよりも、物質になったりエネルギーになったり、つねに変容しているそうではないか。「存在する」ことの根柢は、あんがい神秘的なのかもしれない。身のほど知らずに申せば、危なっかしいものなのかもしれない。

 悪魔的な挑発力をもった現代の解剖学者、養老孟司さんは教えてくださる。神経細胞の先端にあって繊毛のごとく細分化した部分の運動は、それはそれは速くしかも盛んなもので、観察していると、数か月で筋肉細胞の何割が入替るだの、七年で人体の全細胞が入替るだのということも、当然と思われてくるそうだ。
 昨夜就寝前の自分の肉体と、今朝起床した自分の肉体とは、別人と云ってもよろしい。それを連続一貫した不変なる「自分」と信じて疑わないのは「意識」たけだと、養老先生はおっしゃる。
 じつは刻々滅して、刻々産れている。つまりは、色即是空、空即是色ではあるまいか。

 「空」のイメージを掴むに、世俗的欲望を断つとか、心身の我慢を極めるとか、徹底した寛容を目指すなど、断念・諦念の方向にではなしに、生物であれ無生物であれ万物はつねに動き変化してやまぬことを指すとすることによって、ずいぶん考えの風通しがよろしくなる気がする。
 芥川賞作家も悪くないが、こっちの新井満さん、かなり佳いのではないだろうか。