一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

からめ手



 網戸ってえもんは、奴さんにとっちゃあ、まことに摑まりやすい、このうえなく登りやすいもんなんでしょうなぁ。いえ、ヤブガラシの野郎のこってすがね。けど、まさか壁のこっちがわから、つまり腹のほうから撮られるとは、思っちゃあいなかったことでしょうなぁ。まさに、からめ手からというわけで。

 高校時代の学友亀戸君の訃報が、ふた方向から入ってきた。現在でもおりに触れて付合っている、いわば気の合う仲間たちからと、バスケットボール部OB会からだ。
 仲間たちというのは、典型的な男子私学受験校にあって、芸術だの政治だのマスコミだのに興味惹かれる、自称「落ちこぼれ」集団の出身者たちだ。なんのことはない、世の中で面白い仕事をしたのは、ひと握りの飛び抜けた秀才たちを除けば、この連中だ。亀戸君も、その一人だった。
 また当時のバスケ部は、おりしも部員の少ない低迷期に当っていて、そのなかを亀戸君と私とでからくも凌ぎ、次の世代へとバトンを繋いだ、という間柄だった。

 大学へ進んでからは、なん年か音信が途絶えた。ある政治党派の活動家として、亀戸君の動きが先鋭化して、私ごとき軟派野郎とは、接点がなくなったのである。こちらからはどう連絡したらよいかも判らなかったし、彼のほうでも、素人に迷惑を及ぼすまいと、配慮してくれたのだったかもしれない。
 年月を経て、躰をこわしたこともあって、前線から足を洗った彼は、勉強し直して弁護士となった。高校時代の文学好き・映画好きの彼が復活して、われら落ちこぼれ集団の前に再登場したのだった。

 不覚にも私は年月を失念していたが、仲間うちには気の利く者もあって、その教示によれば、亀戸君が癌手術を受けてから、もう二十年にもなるそうだ。一時は病気の巣窟のようになって、仲間たちのあいだには、口には出さずとも密かに覚悟する気配が漂った。
 しかし本人は一見いたって呑気そうだった。杖を携え、動きは万事スローモーとなり、胃が半分になり、総入れ歯にもなって食事も少量づつ多数回となったが、そのライフスタイルを飼い馴らし、誘われた集りには積極的に足を運んでいた。
 法曹界の集り、囲碁同好者の集りほか、交際の幅は私ごときよりも遥かに広かった。

 地方に眠る共通の友人の墓参のために、彼と旅行したことがある。山口県までの新幹線。待合せは朝八時に東京駅のプラットホーム。早めに到着した私を、すでに彼はベンチで待ち受けていた。プルを引いた缶ビールを手にしていた。一度に多くは飲めないので、少しづつ多数回飲むのだと、云っていた。

 さきごろ、べつの旧い友人の夫人が他界されて、その香典返しのカタログから念珠を頂戴したのは、つい数日前のことだ。佳き品物ではあるが、これの出番は多くないほうがよろしいがと、書いたばかりだ。だのに、さっそくの出番となってしまった。これもなにかの巡り合せだろうか。オカルト的な趣味は、まったく持合せないのだが。

 ところで、亀戸君の死因だが、病死ではない。風呂場での事故で亡くなったという。
 前半生における波瀾に満ちた激しい生きかた。後半生における病気百貨店の飼い馴らし。じつに見事にやりとげた。
 にもかゝわらず、まさか奥さまがちょいと外出なさったあいだの、独りご機嫌な風呂場に、死への門が口を開けていたとは……。敵はからめ手から忍び寄ってきた。