世に隠れた才人というものは、いらっしゃるもので……。
かつて「週刊朝日」巻末に、山藤章二さん選考・ご指導による「似顔絵塾」が連載されていた。投稿者による似顔絵の傑作により構成される、四十年以上も続いた人気連載だった。この有名人のこゝに注目したかと、意表を衝かれたり、腹を抱えたりしたものだった。
着眼の才能というものは、じつに凄まじいものだなぁと、毎回感じ入った。巻末一ページのために、毎週「週刊朝日」を買うのも業腹なので、多くの場合は立読みで済ませた。
ところで、Google にも SNS にも、それぞれコレデモカとばかりに多彩な機能が搭載されているが、私には宝の持ち腐れで、ほとんど使ったことがない。試してもみない。
Twitter のご丁寧なる機能のひとつで、二年前の今日、あなたはこんなリツイートをしましたよとのご通知が、本日あった。ほとんどの場合は失念していて、通知されてみれば、はいさようです、たしかに私が反応したことを今思い出しました、という内容だ。が、本日のご通知ぶんに関しては、はっきり記憶していた。
Twitter にはまた、ブックマークと称する記憶収納機能が備わっているわけだが、2011年3月11日に登録設定したわが Twitter で、ブックマーク保存してある投稿記事は、これ一点のみである。
「世田谷ピンポンズ」さんによる、2020年5月16日の投稿記事である。「三人選んでいただけませんか」という本文付きで、五十四人の作家の似顔絵がずらりと並んでいる。どれもが面白い。
「週刊朝日」に投稿され入選掲載されるような、想を練って丁寧に仕上げられた似顔絵とは、およそ似ても似つかない。おそらくは先の細いサインペンかなにか(極細マーカーというのか)を使って、文豪文士の肖像写真を一見してササッと描いてしまったのだろう。「丁寧」とはまた別の、ユーモラスな味わいが深い。
私には「世田谷ピンポンズ」さんが、どなた撮影によるどの肖像写真をご覧になったかまで、云い当てられるものも少なくない。
京都にお住いのフォークシンガーでいらっしゃるそうだ。本と文学と喫茶店がお好きと、プロフィールにはある。
著名なかたなのかもしれないし、ウェブ上や文学フリマ上では、知る人ぞ知るかたなのかもしれない。そちらの分野には暗いので、私は存じあげない。
ハンドルネームから察するに、東京と京都とを往ったり来たりなさっているかただろうか。それとも、京都にも世田谷という地名があるのだろうか。文フリ東京に出店なさるというから、たぶん前者だろうとお見受けするが。
ちなみに私は今年も、文学フリマには足を運ばぬつもりだ。老人がのこのこと人混みへ出張ってよろしい時節では、まだない。
才能とは、素材への着眼において独自であることを要件とする。いかに技量すぐれていても、手際が入念であっても、それらはまた別の価値基準であって、天稟とは関係ない。余人おしなべて、こんなもんと顧みざるところに面白みを視出して情熱を注ぎこめる能力を、才能と云う。
師が夏目漱石研究者だから私も漱石論を、というがごとき言葉が出た時点で、その弟子の才能は先が見えたと申すべきだ。
たゞし才能は必ずしも大成には結びつかない。才能の多寡とはまったく別に、職人として学者として大成する行程もあって、そちらでは師が漱石研究だから私もという志も侮れない。むしろその謙虚な心掛けが地道な精進の支えとなり、現世的には大成への必須要件だったりもする。
後進と付合うに、才能を視抜くことと、将来性を視抜くこととは、必ずしも一致せぬ場合がある。
今これを書きつつ、突然思い出した。村上龍さんが『限りなく透明に近いブルー』で芥川賞受賞したさいの、吉行淳之介さんの選評に、
「この青年、因果なことに才能がある」
とあった。おそらくは吉行先生、才能あるがゆえの大成への行程困難をご指摘なさったのだったろう。その後の村上龍さんは、たしかにさような困難に見舞われ、しかもお見事に闘われたとお見受けするけれども。
噺が逸れた。「世田谷ピンポンズ」さんのポンチ画的似顔絵には、独特な滑稽味が閃いていて愉しい。お齢のほどは存じあげないが、才能が非才能からおゝいに学ばねばならぬという、人生上の課題の困難に見舞われていらっしゃらねば幸いだ。