一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

長短

 もとは十羅刹女社と称ばれていたらしい。地元の長崎神社のことだ。

 長崎神社の創建がいつ頃のことか、はっきりした記録は伝えられてないそうだ。江戸期の大火にて喪われたのでもあろうか。そうした例は、東京には多い。
 当然ながら、コンクリート塀一枚隔てたお隣の金剛院さまとは、神仏習合時代には本地垂迹の間柄だったろう。明治期となって神仏分離の国家政策のもと、廃仏毀釈運動が起った風潮のなかで分かれた。これは資料でも口承でも、はっきりしている。

 数段の石段を昇って大鳥居。敷石に沿って歩を進めると、さらに数段昇って中鳥居。くゞったら正面拝殿へと急がずに、首を右へ(つまり金剛院さまのほうへ)向けると、鬱然たるクスノキやカシの巨木の根方の小暗きあたりに、目立たぬようにさりげなく、古い蹲踞(つくばい)が置かれてある。
 「奉納十羅刹女」と彫ってあって、講中(信仰者たち)の寄進物たることが示されてある。享保十八(1733)年の奉納とも彫られてあって、これが文献・収蔵物含めて、現在長崎神社に残る、もっとも古い年号だそうだ。

 十羅刹女とは、十柱の怖ろしい女鬼神たちだ。衆生を束縛したり、仲たがいさせたり、心の自由を奪ったり、とり殺したりする。鬼子母神と同じく、法華経の崇高な教えに出逢うことで眼覚め、改心し、帰依して、人間を護る神となった。
 当地より西のかた、同じ私鉄沿線に豊島園という、近年まで遊園地だったものが今は入浴施設となった場所があって、その裏手に位置する春日神社が、やはり十羅刹女社だったそうだ。また当地より東のかた、雑司ヶ谷には、有名な鬼子母神さまのお社もある。
 当時江戸市中からだいぶ離れたこのあたりは、次第に開墾されて流入新住民が家をなし、新たに村落共同体が形成されて、盛んに子育てされた地域だったのだろうか。子どもの健やかな成長と村落の安寧を庇護してくれる、悪女から転向した、いわば子育ての苦労を知り尽した女鬼神への信仰が、身近だったのだろうか。

 そういえば、実物を拝見したことはないが、お隣の金剛院さまに今も残る江戸中期の村内地図には、二百数十戸の家が記入されてあるものの、今日にまで血筋が繋がっている家は、一軒も視当らぬそうだ。
 災害や飢饉などの困難もあったのだろうが、家の消長や人の出入りが、共同体を相当ダイナミックに変容させていたのではあるまいか。

 十羅刹女と彫り込まれた蹲踞を写真に収めたところが、画面左上に、白くぼんやりした玉っころが写り込んでくる。で、そちらにピントを合せてみると――

 灌木の照葉の先端から糸が垂れ、先端になにか白く半透明なものがいる。蜘蛛だろうか。形が変だ。色も蜘蛛らしくはない。あるいはこういう種類もあるんだろうか。それとも産れたばかりの蜘蛛は、こんな色をしているものなんだろうか。
 意識してみると、あたりになん本も糸が垂れ、同じようなもんがなん匹もいる。もし今、彼らが若虫だとして、今年中には命を了えるのだろうか。
 長い人生と云い、あっけないほど短い人生とも云う。が、時の長さなんぞというものは、考えれば考えるほど解らない。

 この地に移ってきて、六十五年以上経つわけだが、じつのところこの町を、まだよく知っているわけではない。摑みどころのない時間だったような気もする。
 それでいて、私がオギャアと産れた日から、現在の方角へやって来ないで、反対に過去の方角へと同じ年数だけ遡っていったら、どうなるか。明治十年だ。夏目漱石はどこにいたろうか。まだ十歳の少年である。
 時間だの時代だの、人生だの成長だのと云ったところで、いゝ加減なものだ。この白い蜘蛛が、今年一杯も生きていないのだとすれば。