一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

眼の記憶

 いわゆる、ひとつの……区立児童公園における、もっとも想定された用途。

 日差しの好い午前には、運動と日光浴を兼ねた散歩。近所の保育園児と保母さんたちだ。各ご家庭で保護者さんがこれを連日なさるとなれば、さぞや大変。これだけでも保育園の存在価値があろうというもの。
 ラジオ体操や朝散歩の老人たちは、とうに帰った。親たちは仕事に出掛けたり、掃除洗濯の時間帯。活発に遊具を使う小学生たちは、今は学校。中・高校生も学校。だいいち、今さら公園なんて子ども臭くってと鼻も引掛けないのか、それともたんに照れ臭いのか、普段からあまり姿を見せない。大学生や大人たちは、午後深まってからか、夜になってのお出ましだ。。
 つまり午前中は、園児たちによる独占時間帯だ。ごくたまに、園児たちに眺め入るお年寄りが、ベンチで腰掛けていたりする。

 保育園の経験はない。就学年齢前年にこの町へ移ってきた。おりしも戦後の教育再生が、ようやく末端にまで行届きつゝあった時代、ご近所に並木幼稚園ができて、そこで一年保育。私は同園の第一回卒園生である。
 就学前に幼稚園へ通わせてもらう子は、まだ全児童の半数にも届かぬ時期ではなかったろうか。
 手首をゴム編みで絞った水色の制服の胸にも、肩から斜交いに提げた布カバンにも、園の徽章が大きく、刺繍だったかアップリケだったか、されていた。制帽もあったのだろうが、記憶が薄い。嫌いで、できるだけ被らなかったのかもしれない。

 親による送り迎えなど、当然なかった。どちらさまも同じで、園で保護者の姿を視る機会など、めったになかった。通園途中の道筋に、車の往来などほとんどなかったのだろう。けしからん人災など想定する必要がないほど、さりげなくご近所の眼が、行届いていたのでもあったろう。
 それだけに、運動会やお遊戯会(つまり学芸会)で、親と連立って通園する日は、一世一代の晴れの日であり、晴れの場だった。
 一面的で身勝手な、不謹慎ですらある申しようとは承知の上で、今と当時とでは、園児にとってどちらが幸せな時代かと、ふと思ってしまうことがある。

 園庭にろくな遊具もなかったが、よく走り回った。銭湯の湯槽の兄貴分ていどながらプールもあった。
 園外散歩もにも連れ出してもらった。しかし遊具完備の区立児童公園などは、まだありえようもなかった。こゝは雑草生えるにまかされた原っぱだった。
 神社の境内を歩いた。山手通りが私鉄を跨ぐ陸橋の歩道から、富士山を眺めた。富士山とはけっして孤峰ではなく、連山とともに眺めるべきものと、子ども心に覚えた。


 「二人づつ、おてて繋いでぇ。○○ちゃんは、先生とだねぇ。帰りは、パン屋さんを覗いて。クンクンしてから帰ろう」
 パンが焼ける香りを、たまらなく佳い匂いと、この子らは覚えるのだろう。こぢんまりしたベーカリーに、まさか全員で入店するはずはないが、店の前でほんのいっときカヤカヤする。そのことは、ハラダベーカリーのご店主や若奥さまから、かねがねお許しをいたゞいてあるにちがいない。

 じつは整列のちょいと前、
 「さ、おててキレイにしたら、そろそろ帰ろうかぁ」
 と集り始めたとき、一人の女の子が、隣の二階の窓に気づいた。デジカメを手に自分らを眺めている爺さんがいる。隠れる必要もあるまいとは思ったが、いちおう首を引込めた。数秒後に首を出してみると、まだこちらを視つめていた。
 意味もない、一瞬の些細な光景が、なぜか記憶に残って、後年までおりおり蘇るということは、よくある。彼女に変な記憶が残らねばよろしいが。