一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

有名

正面。

 思い出の品だ。地震被害に遭っても、幸いに生残っている。

 茨城に城戸夏男さんとおっしゃる陶芸家がおられた。私ごときが作品を所持したり、親しくご厚誼いたゞけるようなかたではなかった。文学愛好家の医師である大先輩が昵懇の間柄で、そのかたのお引合せによって、われら同人誌仲間四五人でどやどやとお訪ねして、窯場見学させていたゞけた機会があった。
 ご夫妻揃って、謙虚にして心優しきかたがただった。陶芸作家と称ばれるよりは、陶工と称ばれるほうが、意に適うなどとおっしゃった。

 前もってわれらの雑誌をお届けしてあって、当時たまたまそこに、私は柳宗悦を扱った文章を連載していた。お茶をご馳走になって談笑するなか、城戸さんは思い出したようにちょいと席を立たれ、奥から古びた本を一冊手にして戻られた。
 「これは私の聖書ですよ。若いときこの一冊に出逢って、繰返しこれだけを読返したもんです」
 驚いた。柳宗悦『工藝の道』の親本だった。むろん私は後年刊行の普及本や『全集』でしか読んだことはない。手に取ってみたことすらない。古書店アイテムとしては、今や高価な稀覯本に属する。刊行されたのは昭和の初めころだから、この本が新本として世に流通していた時期を考えると、城戸さんは十代後半か、せいぜい二十歳そこそこでこれを手にされたのだろう。そして生涯の志を固められたのだったろう。

 『工藝の道』は、柳宗悦が「用の美」を提唱し、芸術家個人の個性を発揮する美術作品の美とは別に、暮しに用いられて手にも眼にも優しい、丈夫で無事な工芸品の美がありうると高らかに宣言した、画期的な一冊である。この一冊に各分野の職人たちや多くの論客たちが眼を開かれ、やがて民芸運動へと結実していった。
 その後長年にわたる実践によって、今や城戸さんは、柳が立てた理論の観念性や理想過多性を遥かに超えてこられたことだろうが、それでもお若き日のあるとき、基本的な方向を示してくれた一冊を、懐かし気に語られ、倦むことがなかった。

 当日の記念として城戸さんは、われらに絵付け遊びをさせてくださった。ロクロで成形して素焼きした湯呑を、前もって人数分用意してくださっていたのである。顔料や筆までも。
 われらは思い想いにいたずら書きをさせてもらって、お預けした。ひと月後くらいだったか、透明釉がかゝって美しく発色したいたずら湯呑が、めいめいのもとへ届いた。

そして裏。

 筆だけは、申しわけなくも私だが、成形と焼きは紛うことなく城戸夏男作による、宇宙にたゞ一個の湯呑である。

 窯場にお邪魔してより数年後、銀座の百貨店で「城戸夏男展」が開催された。作品を購入できる身分ではなかったが、ご案内を頂戴したので、「枯木も山の」ということもあろうかと、オープニング・レセプションに出掛けた。
 上座のご来賓によるご祝辞やご挨拶が済んで談笑。お開き前に、城戸さんがマイク前に立たれた。
 「まず皆さまに、お詫び申さねばなりません」
 開口一番なにごとかと、一同耳をそばだてた。
 「それは、私がついに有名にならなかったことです。応援してくださっている皆さまにとりましては、さぞや歯がゆく張合いのない、また応援し甲斐のないことかと、この場を借りてお詫び申しあげます」
 この陶匠のお人柄を知る者だけの集りである。笑いが弾け、拍手が鳴りやまなかった。

 なるほど、これでよろしいのだなと、私は深く納得するものがあった。三十歳代に入ったばかり。身銭切って同人雑誌に書くことに夢中で、売文などはまだ一度もしたことない時期だった。