一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

気はココロ


 弁当買い食いで、手抜き食事。家事に気乗りせぬ日だ。

 昨日は月一回のユーチューブ収録日。お若いディレクター氏が、機材一式を収めたトランクを提げてご来訪くださる。
 演しものは一任されていて、どんなネタを喋ってもよろしいことにしてくださっている。当方にとってまことに気楽な、ご配慮をいたゞいているわけだ。
 にもかゝわらず、私の準備が間に合わず、下調べや確認作業が不十分のうちに、当日を迎えてしまった。

 二週間あまり以前、高校時分の仲間の通夜に参列した。なん年ぶりか、なん十年ぶりかの面々と数多く顔を合せた。連絡先交換もあり、近いうちにまた、という運びにもなる。この二週間は、じつに忙しかった。
 もっとも社会人の時分は、このていどを多忙とは称ばなかった。今は、ふたつ三つの案件を同時進行させると、かならずといってよいほどに視落しや勘違いが生じる。どうしてその場で思い至らなかったろうと、あとで悔むことが、きっと起る。
 だからなるべく単純作業に、いわば用件を因数分解して、ひとつづつ片づけてゆこうと心掛ける。つまり演算速度の著しき低下だ。そのため体感的には、癪に障るほど多忙となる。

 今回ユーチューブで扱いたかったのは、準備不足のまゝに手を着けることは控えるべき内容だった。またの機会にと、見送るほかはない。
 しかたなくディレクター氏には謝罪して、持ちネタで許してもらった。講義でも雑談でも、いく度となく口にしてきた材料の使い回しである。幸運にも、彼にとっては耳馴染のない話題だったらしく、収録はいつもどおり活発に終了した。
 が、今日はどことなく、なにごとにも気乗りしないのである。

 こんな日は、頭を空っぽにして、他愛ない単純作業で躰を動かすにかぎる。拙宅の狭い敷地内は、主の怠慢という僥倖に恵まれて、花盛りだ。

 じつにじつに、花盛りである。放置したところで、時期がくれば姿を消してゆく花たちだ。しかしそうなれば、根や地下茎を網の目のように発育させて、スコップを地に刺しても、土なんだか植物の残骸なんだか判らぬような土地となってしまう。緩んだ土地となっては大ごとだ。
 加えて、建物の裏手には、水道の汲上げモーターのほかに、ガスメーターがあって、月々検針係のご婦人が足を運んでくださっている。歩きにくかったり、飛び石に躓いたりなさっては大ごとである。

 かといって、一日に三十分。それ以上の重労働は疲労や筋肉痛のもとだ。歩くにもっとも重症な箇所二三坪を目安に、粗っぽく草むしりした。根こそぎにする必要はない。飛び石状に埋めてあるコンクリート板の踏石が目視できれば、とりあえずの危険はない。

 なん十年も前には勝手口と称ばれ、やがて開かずの扉となった扉の外側には、半畳敷きほどのコンクリート三和土があるから、抜いた草ぐさはいったん積んでおく。乾燥して、完全に亡骸となってから、穴を掘って埋め戻し、地中微生物の餌とする。
 地中の養分をふんだんに吸上げた植物たちの、亡骸すべてをゴミ袋に詰めて回収に出したのでは、土は痩せ細ってゆくばかりだ。嵩も減ってゆくことだろう。建物の土台に悪影響が生じたりするかもしれない。半分はゴミとして出しても、もう半分は土に還してやる。
 蟷螂の斧。たかが老人ひとりの手でできる量など、大地にも建物にも、影響などあるまい。承知だ。気はココロ。自己満足とも云う。

 芸能や芸術や、社会通念や公共道徳や、文物や制度ばかりが文化ではない。文化とは元来、非効率を愛するところに生ずる、享受の形態や表現の形式である。
 さて、まず弁当をチン、っと……。